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『シン・ゴジラ』に本当にドラマは無いのだろうか?

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

※注意!前回の記事に続いてやっぱりネタバレ全開です。

シン・ゴジラ』にはドラマが無いというが本当だろうか。

僕はそのようには考えない。確かにゴジラと日本の戦いに焦点を置いた本作において、特定の人間達のドラマが映画の前景に出る局面はあまりない。だが、ようく目を凝らして観ると、そこにはある種ベタと言ってもいいドラマが横たわっていることに気付く。


例えば優秀なスタッフが的確な仕事振りを見せる巨災対メンバーにおいて劇中、実は二人のメンバーが明確なミスを犯している。


一人は高橋一生演じる文部省研究振興局基礎研究復興課長の安田だ。


彼はゴジラが発生してから皆でゴジラのエネルギー源についての議論をした際に、体内での核融合核分裂を行っているという可能性を一蹴する。そんなことはありえませんよと。


しかし、その断定は直後に覆される。自分の考えがひっくり返されて素直に謝る安田のシーンは彼が愛すべきキャラクターであることを印象付ける微笑ましいシーンではあるが、実はこの間違いが後々まで彼のふるまいに残響を残して行くことになる。


ゴジラに向けて米国の核ミサイル攻撃が決定した際の彼のセリフを覚えているだろうか。「選択肢にあっても…選ぶなよ…」だったっけ?手元で確認しようないのでうろ覚えで書くけど、先の彼が犯した間違いを踏まえてこのセリフを言う意味を考えてみよう。


安田という男はゴジラという未知の生物に対して、核融合核分裂なんて「選択肢」がそもそも無かった男なのである。一方米国は核攻撃という選択肢が当然あった上でその選択を迷い無く選ぶ、そういう存在なのだ。そんな圧倒的な存在に打ちのめされるようにして吐き出す言葉がアレなのである。


だが、そこから核攻撃をされる前にヤシオリ作戦実行のため巨災対メンバー一丸となって仕事に向かう時に、既存の組織の枠組みをちょっとだけ超えた働きをするものまた彼なのだ。対象に向き合う過程で一度は壁にぶつかり、敵の存在とその対処法において米国にすら圧倒され、そこから再度立ち上がり、最後は矢口とともに作戦現場に立ち会う彼はこの映画の中で確かに成長していた。少なくとも僕はそのように思う。


そして、巨災対メンバーには、自分が確認している限りもう一人、ミスを犯したメンバーがいる。それは主人公の矢口だ。


彼の犯したミスとは、都心に迫るゴジラの脅威を受け、総理に対して避難を進言し、結果として内閣の大半を死に至らしめたことだ。


このことを彼のミスとしてしまうのは、厳しい見方かもしれない、だが、彼自身劇中で希望的な観測で対象を捉えることの危険性を訴え、想定外でなんでも片付けようとする大臣に苦々しい思いを抱え続けていたではないか。大抵の観客は内閣総辞職状態になったことを彼のミスとは捉えないだろうが、彼自身は己の判断ミスだと捉えている筈である。その証拠に彼が劇中唯一激怒するシーンを思い出してみよう。部下の志村に閣僚達の大半が居ない事を言われて思わず激怒するあのシーンは自分が犯したミスを部下に無自覚に突かれてしまったからつい漏れてしまった怒りだと考えればわかり易い。そしてその怒りがやっぱり自分本意であることもわかってるから泉ちゃんにサクッと宥められてしまうのだけど。


そこから、再度態勢を立て直してヤシオリ作戦実行に向けて動き出すのだけど、安田がちょっとだけ組織の枠を超えた働きを見せることと同様に、矢口もまた組織の枠組みを超えた働きを見せ始める。そこには牧教授の残した「私は好きにした。あとは好きにすればいい。」という言葉が関係してくる。


シン・ゴジラ』に出てくる人物はとにかく自分の仕事に対して忠実だ。特に自衛隊に関しては、気持ちよりも仕事を優先する姿勢がピエール瀧や國村準のセリフから直接的に語られていた。でもそれだけではゴジラを止めることは出来なかった。真面目に職務に徹するだけではこの想定外の危機に対処出来ない、ではどうすればいいのか。


好きにすればいいのである。


ヤシオリ作戦の実行過程において、一連の事態でそれぞれ挫折を味わった矢口と安田は、これまでの仕事のやり方をちょっとだけ変えて好きにし始める。あくまでゴジラとの集団戦に主軸をおくこの映画でその行動は決定的に事態を好転させるわけではないが、確かに事態を前進させてもいた。このように、『シン・ゴジラ』という映画は決してこれ見よがしな形ではない形で、二人の男の成長の物語を内包する映画でもあるのだと僕は考える。あと、やっぱ牧教授ってモデルは宮崎駿で、俺は好きにゼロ戦映画作ってやったけどお前も好きにすれば?って言ってるんだと思った。それに対するアンサーが無人在来線爆弾な訳ですね。


このような見解はかなり深読みした、穿った見方だろうか。僕はそうは考えない。その理由は既に安田というキャラクターが相当な人気を集めているってことだけではなく、矢口という主人公に対して、主人公としては弱過ぎるという声があまり聴こえてこないからだ。皆、無意識的に矢口や安田の成長を感じ取っているんだと思う。本当に主人公にドラマが全く無いのだとしたら、ドラマが無い以前に主人公として弱いという声がもっと挙がっている筈だろう。


じゃあなんで、普通にドラマも内包している『シン・ゴジラ』に対してドラマが無いという言葉が投げかけられるのかと言えば、この映画が、事態を劇的に解決してくれる英雄的キャラクターとか、一発逆転のアイディアとか、ゴジラすら葬れる新兵器とかを念入りに排除することで、所謂普通の映画の構造であるとか、普通の映画のカタルシスを排除してるからでしょう。庵野秀明ってトップをねらえにしてもエヴァンゲリオンにしても、一撃必殺とか逆境からの逆転とかそういう一番ベタだけど、一番燃えるシチュエーションを最も鮮烈に描ける作家なのに、そこは人間側に対してはかなり封印して挑んでいる(※無人在来線爆弾除く)。なんでそんなことしてるのかって言ったらそりゃ現実にそんな英雄とか一発逆転のアイディアとか便利な新兵器なんて全くないからだろうね。そういう意味で誠実に3.11以降という状況に向き合ってる映画なんだと思う。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

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