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ゲームと文化交流〜ぼくのかんがえたみらい〜

 まだWiiやDSが登場する以前、オイラはこれからのゲーム業界は、異なる文化領域と交わることによって、成長していくんじゃないかと思っていた。


 そんなことを思ったのは、GTA3というゲームが登場し、世界中で大ヒットしてたからだ。


 このゲームはグラフィック自体はさほど綺麗ではないっていうか、見るところによっては相当ヤバイ見た目のゲームなんだけど、ゲームの世界が尋常じゃなく広大で、そこを序盤からかなり自由に動きまわることが出来る。主人公は、本来の目的そっちのけで、色々なことがやれてしまう、所謂自由度の高いゲーム、そのように紹介されることが多い。


 けれども、オイラはこのゲームの肝は、自由度が高いってこととはちょっと違うんじゃないかと思った。このゲームが凄いのは、自由だから面白いんじゃなくて、自由なのに面白いところだ。普通、ゲームってのは、時間的な自由とか、移動範囲の自由を安易に許してしまうと、最初の数時間であっという間に飽きてしまうことが多い。去年発売された、アサシンクリードってソフトは、その典型って感じのソフトだった。でも、GTAというゲームは、なんとなく街をふらついてること自体が面白い。自由である面白さというより、街の空気を感じる面白さ、みたいなものがある。


 例えば、GTAには、多くの車が登場するが、それぞれの車には、カーラジオが流れており、色んなチャンネルが用意されている。そこで流れている音楽だったり、トーク番組だったりは、GTAシリーズごとに設定されている時代設定、80年代だったら80年代の音楽が流れるし、90年代を舞台にした作品なら90年代の音楽が流れる。そうやって、その時代の音楽を聞きながら、その時代を模した街並みをドライブしてるだけで、映画やテレビなどで、断片的にしか知らなかった、アメリカのその時代の空気みたいなものを(ゲーム的ディフォルメが施されてるとはいえ)感じることができるようになっている。


 GTAシリーズを未だにたまにプレイしてしまうのは、その時代の空気みたいなものを、音楽や映画などいろんな文化を交えつつゲームとして表現することに成功している作品だからだ。そして、そんなゲームが世界的に大ヒットしているということは、ゲームというメディアは、ある種の文化的、地理的な記憶を追体験する装置として、重宝される日が来るのではないかとか勝手に夢想していたのだ。映像の進化が終わったとしても、その方向は、映像の進化など関係なく、栄えるだろうと思っていたのだ。


 そんな夢想は、任天堂の躍進によってまんまと裏切られることになった。任天堂が提案したのは、文化とかよりもっと根源的な「自分の身体を使う面白さ」だった。任天堂はオイラなんかより、より深いレベルで「普遍」というものを捉えていたということなのだろう。


 でもまあ、アメリカで、ギターヒーローシリーズが、アメリカのロック文化を反映し、それを体感できるゲームとして、大ヒットしてるのを見ると、自分の考えもまるっきり外れていたってわけではないのかなとか思う。GTAシリーズっていう大ヒット作から導きだされた考えなんだから当然って言えば当然なんだけど。