ときメモに見るゲームのマジックについて

 ときめきメモリアルというソフトに登場する美少女のグラフィックは、正直そんなにクオリティは高くなかった。


 二次元の美少女イラストというものにも、時代によって明らかなトレンドというものがあるが、ときめきメモリアルはそのトレンドに明らかに乗れていなかった。同時期に世に出ていたスーパーリアル麻雀PVと比較するとその差は明らかだった。


 美少女のグラフィックというギャルゲーにおける生命線とも呼べる要素に問題があったにも関わらず、ときめきメモリアルは売れた。(まあスーパーリアル麻雀PVもヒットしたんだけど。)ギャルゲーとしては、歴史的な商業的成功を収めた。


 おそらく、その秘訣は、やはりときメモの秀逸なゲームシステムにあるんだと思う。


 ここに僕は、ゲームというメディアが持っている特性、もっと言えば、ゲームのマジックのようなものを見る。死んだ絵に命が宿って見えるアニメのマジックや、本来ならあまり美しくないはずの存在が、フィルムに移っているその瞬間は最高に美しく見えてしまう映画のマジックと同じように、それほど、魅力的には見えない筈の存在を最高に輝かせるゲームだけがもっている魔力のようなものを、ときめきメモリアルは如実に感じさせてくれるソフトだった。

 
 ときメモというゲームは結構ゲーマーの間でも評価が高かったり、真面目に熱く語ったりする人がいたりしたソフトでもあるんだけれど、それは、このゲームがゲームシステムの勝利する瞬間、システムによって世界が鮮やかに塗り変わる瞬間を見せてくれたからではないかと思っている。その意味では、ポリゴン丸出しの初代バーチャファイターが我々に与えた衝撃と、ときメモが我々に与えた衝撃は、結構近い位置にあるのである。いやホント。


 でもときメモ3のトゥーンシェードはさすがに限界でした。ごめんなさい。