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ゲームにおける探査と到達、及びそこから見えてくる日本のネットの風景について

 今回の記事は↓この記事の続きです。
 ゼルダよりマリオが売れる理由 - 枯れた知識の水平思考


 ゲーム、というよりもゲームプレイというのものは非常に大雑把に分けてしまえば、探査と到達の繰り返しによって出来ている。


 スペースインベーダーにおいて、プレイヤーは、敵キャラの位置、数、行動パターンを探査し、適切な位置に自分が操作する砲台を到達させ、適切なタイミングで弾を撃つことで(タイミングを図るという行為もまた探査の一部である)、敵キャラに自分が放った弾が到達し、敵を撃破する。これらの行動の繰り返しによってゲームの流れが構成されている。


 探査と到達の繰り返しが最も顕著なゲームと言えば、テトリスが挙げられるのではないだろう、あのゲームなどは、まさに、ランダムに発生するブロックを落とす最適な位置を瞬時に「探査」し、手際よくその探査した場所へと「到達」させることの繰り返しで出来ているのである。


 ゲームにおける到達すべき目標というのは、主に、「位置」であり、「時間」であり「得点」である。特定の位置へと移動し、到達することでクリアになるゲーム、特定の時間内に適した行動(敵を撃破するなど)をとることでクリアになるゲーム、特定の得点に達する事でクリアになるゲームなど、これらの到達目標を掲げて、様々なゲームが生まれてきた。


 「位置」を到達目標に掲げて来たゲームと言えば、主にアクションゲームが挙げられるだろう。「時間」を目標に掲げて来たゲームはタイムアタックなどを主眼に据えたレースゲームだろうか。「得点」を目標にするゲームは昨今では少なくなったと思うかもしれない。しかし、「得点」を到達目標に据えたゲームというのは、「得点」の形を変えて大きく発展してきたのである、RPGというジャンルにおける「経験値」の存在がそれだ。


 RPGというジャンルは「経験値」という画期的な到達目標を発明することで、一大ジャンルとして栄えることになったと僕は考えている。アクションゲームで障害を乗り越えて目標地点に辿りついたり、レースゲームで最高タイムを更新するためには、地道な技能の修練がいる。しかし、RPGにはそれらの目標到達のための技能は必要ない。必要なのは、敵を倒すために最適な行動を選択し続けること。つまり、敵を倒すために必要な行為を「探査」することだ。そうすれば、あとはひたすら「経験値」を高いレベルに到達するまでに蓄積させてしまえば、ゲームをクリアすることが出来る。そのため、技能を必要としないRPGでは、探査に軸足を置いた知能型のゲームが広く求められた…と言いたいところなのだけれど、少なくとも日本に置いては、そうはならなかった。日本におけるRPGの進化とは技能型でもなく知能でもないかなりおかしな進化の仕方をし、それが昨今JRPGとかなんとか色々言われてたりするのだけれど、それはおそらく、日本のRPGが経験値やお金やアイテムなどを蓄積し、向上させるという一部分を特化させ過ぎたためだと思っているのだけど、それは前にもちょっと記事を書いたし、踏み込むとまだまだ長くなるので、今回は割愛する。


 今回僕が考えたいのは、前回の記事でも触れたように、マリオとゼルダという二つのタイトルの根本的な違いについてである。


 探査と到達という二種類にゲームプレイヤーの行動を分けた時、マリオは到達に重きを置く作りがなされ、ゼルダは探査に重きを置く作りがなされているというのが僕の考えである。


 マリオというゲームにだって、探査的な内容はある。アイテムが出てくるブロックの存在や、隠しコースの存在はプレイヤーに探査的な行動を要求してくる。しかし、それらは、ゲームをクリアーするために必須の内容では無いのである。クリアするために必要な全ての能力をマリオは最初から持っている。スーパーキノコや、ファイアフラワーやスターの存在を必要としなくても、マリオはマリオのままで、ゲームをクリアすることが可能なのだ。この探査的ゲーム内容を補助として割り切り到達型のゲームとして作り切ったところが、初代マリオを未だに傑出した存在たらしめているのである。宮本茂の発言を引用しよう。

 宮本 「マリオ」の新しい敵キャラクターを決める時、僕が試作やスケッチを見ては、これはダメ、これはオッケーと決めるんですけど、その基準が自分でも説明できなかったんです(笑)。でも「マリオ」を制作するチームが増えたので、5年ほど前にルールを整理しました。「マリオ」に出てくるオブジェクトやキャラクターは全部、その造形で機能が説明されていること。トゲが付いていたら触っちゃダメとか、燃えているものに触れてはいけないとか。ただの絵柄として表現されているものは駄目なんですね。


オトナファミ2010年二月号


 この発言からも、マリオというゲームが、プレイヤーに不必要な探査的なふるまいをさせないようにさせないように作っているのがわかるのではないだろうか。


 この徹底した到達重視のゲームデザインは一見簡単そうに見えるかもしれないが、非常に難しい。たとえばボスの倒し方一つとっても、「このボスはどうやれば倒せるんだろう?」と考えこんだ時点で、プレイヤーは探査的なふるまいをしてしまっていることになる。マリオですらマリオ3においては、ボスとのバトル時に若干の探査的な内容を含んでしまっているし、強制スクロールのステージは、到達の自由度を削いでいるとも言えなくはないのである。しかし、それらの要素があるからマリオ3は駄作なのかと言えば、そんなことはない。むしろシリーズ最高作と評価する声も少なくは無い。初代のあまりに徹底した到達型のゲームデザインは、そのシンプルさが故に、バリエーションを持たせ辛いという欠点もあるのだ。だからシリーズを重ねるごとに、マリオに探査的な内容が付随するのは、やむを得ない処置とも言えるだろう。だからこそ、初代スーパーマリオブラザーズは、現代のゲームシーンにおいても、その輝きを失うことは無いだろうと僕は考える。その理由は、すでに述べたように、その徹底し尽くした「到達型」のゲームデザインにこそある。


 では今度はゼルダはどうだろう?ゼルダの伝説は探査に重きを置くつくりになっているとは既に述べたが、それはどういうことなのか?


 ゼルダの伝説が探査に重きを置かれて作られていると僕が考える理由、それは、主人公のリンクがゲームが始まった時は、何も出来ないキャラクターだからである。


 主人公のリンクはまず剣すらもたない状況からゲームが始まる。だからプレイヤーはまず何をするにしても探査ありきでゲームを進めなければならないのだ。リンクというキャラクターは、自分の外部から助けや力を得ないと、次へと進めないキャラクターなのである。ゲームをクリアするために必要な全ての能力を最初から備えているマリオと、ゲームをクリアするために必要な全ての能力(最初は攻撃すら出来ない!)を持たないリンクは全くもって対称的な存在だと言えるだろう。


 宮本茂という存在がやはり傑出した存在だなあと個人的に思うのは、先に引用した発言にもあるように、探査と到達というゲームプレイヤーというよりも人間の行動にまつわる二つの要素を直感レベルで仕分けして、到達型のマリオと探査型のゼルダという二つのタイトルに仕上げてしまったことゆえにである。


 ということで、探査型ゲームのゼルダと到達型ゲームのマリオということを語ってまいりましたが、ここからちょっと風呂敷を広げてみましょう。以下の内容は眉に唾をつけながら読んでください。


 ネットの検索エンジンgoogleは、究極の探査型システムと言えないでしょうか?何をするにしても、自分がまずなんらかのキーフレーズを入力し、そこから全てが始まります。逆に、yahooはどうでしょう?あのサイトはとりあえずサイトを開けば、別の言い方するとサイトの到達してしまいさえすれば、色々なニュースやら情報が表示され、そこからリンクからリンクへとスライドしていくだけで、なんとなく色んなサイトへとアクセスすることができます。その点において、yahooはgoogleに比べると到達型のシステムと呼べないでしょうか?


 日本ではyahooのシェアがgoogleよりも高いそうです。これは、欧米では見られない特徴だそうです。その理由として、yahooはオークションなど、日本の顧客に即したサービスを提供して云々なんて分析がなされているそうですが、もっと根本的に探査型システムよりも到達型システムのほうが日本人には向いていると考えてみたらどうでしょう?マリオは世界的に愛されているゲームですが、日本でも圧倒的に愛されてます。逆に探査型のゼルダはどうでしょう?欧米の人達は、マリオも大好きですが、ゼルダも大好きです。それに比較してしまうと、日本におけるゼルダの受容はどうでしょう?


 おそらく、日本のゲームシーンの特徴は、探査型の内容のゲームは欧米に比べるとそれほど需要が無く、逆に到達型の内容のゲーム(RPGだってどちらかと言えば到達型のゲームだと言えるでしょう)は異常なくらい好むという特徴があると僕は思います。昨今次第に日本国内においてもFPSの需要が向上しつつあるのは、かつては、探査型のゲームであったFPSが昨今の進化によって到達型へと変質しつつあるということが大きいのではないかというのが個人的な見解です。


 最後はえらい駆け足になりましたが、探査と到達という二つの要素からは色々と語れることがありそうなんで、今後ももう少し語っていこうと思います。一端おしまいです。