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連打の効能

 どれほど臨場感抜群の音響設備を誇る映画館で上映する映画だとしても、見てる人の鼓膜が破れるほどの音を流すわけにはいかない。ブラックホークダウンという戦争映画で、あまりの銃撃の激しさに鼓膜を破ってしまう兵士のシーンがあるのだが、それを見ている我々の鼓膜は破れたりはしない。どれほどド迫力の映像を作ろうとも、音響は観客に害を為さない程度に音量を下げなければならないのが、映画というメディアの特質であり、限界なんだと思う。


 それと同じように、TVゲームの画面の中で、どれだけ激しい銃撃戦が繰り広げられ、主人公、即ち自分の分身がどれだけ銃弾を浴びようとも、自分の身体には傷一つつかない。まあ当たり前の話である。ゲーム中で傷ついたら自分も傷つくゲームなんてちょっと興味ないわけでもないし、今後の技術の進化で実現できるのかもしれないけど、たかがゲームで一々銃弾の衝撃を体感してたら身体がいくつあっても足らないだろう。


 ゲームというメディアは、ゲーム中のキャラクターにかかっているほどの負荷をプレイヤー自身の肉体にかけるわけにはいかない。それがこのメディアの特質であるし、限界でもある。


 連打という今や原始的とも呼べる操作方法が、ゴッドオブウォー3のCSアタックなど、最新のゲームにも結構な頻度で導入されているのは、連打という操作が、TVゲームでは数少ない、プレイヤーの肉体に簡単に負荷をかけることのできる操作だからだと思う。


 煎じ詰めればゲームの操作の大半は適切なタイミングで、適切なボタンを押すことに集約される。自由度の高いゲームというのは、適切なタイミングに幅のあるゲームであったり、適切なボタンに幅があったりするゲームのことを言うのである。


 連打が他の操作と違うのは、とにかく速くたくさん押せば押すほど良しとされるところだ。細かいタイミングとか適切な量の調整みたいなことに神経を配る必要がないところだ。自分の肉体の限界を突破せんと一所懸命になることを許されるところだ。連打とはプレイヤーが馬鹿になって肉体(指先だけど)を躍動させることができる数少ない操作なのだ。


 いろんなゲームにいろんなタイミングで「連打せよ!」みたいな指示がでるが、それはあくまで「連打せよ!」という指示であることが重要で、「5秒以内に50回ボタン押せ!」みたいな具体的な時間と量を示す指示では駄目なのである。とにかく我を忘れて打ち込めること、それが大事なのだと思う。


 今後どれほどゲームの技術が進んだとしても連打、及び連打に類する操作方法は無くならないだろう。それは連打が簡単にプレイヤーを疲れさせることが出来る、汗をかかせることが出来る操作だからだ。プレイヤーに怪我をさせるほどの負荷をかけるゲームが普通に考えて実現困難である以上、ゲームが映像的に進化すればするほど、連打の重要性は増すだろうと僕は考えている。