横井軍平について

 任天堂の遊びの哲学の基礎を作った人である、横井軍平については、

横井軍平 - Wikipedia

↑この辺にも色々と書いてあるので、知らない方は一度読んでみることをお薦めします。



 本当に偉大すぎる人なので、私なんかが語るのは非常に恐れ多いんですが、横井氏の名言を拝借するような形で、自分のブログの看板にしてしまっている身だし、語らせて頂こうと思います。

 
 彼の凄さはゲームボーイの画面を白黒にしたってとこによく表れています。


 コストや性能、バッテリーの持ち時間を考えベストの選択をしたとサラッと言ってしまっていますが、当時は既にファミコンが存在し、当然のようにカラーの画面だったんです。


 そんな、色がついていて当然じゃね?っての状況に対して、「色とか別にそんな関係ないだろ常識的に考えて」とこともなげに言い放ってしまえる人物、それが横井軍平です。恐ろしいほどに周囲の(余計な)空気を読まず、遊びの本質はがっちり射抜く、それこそが横井イズムです。(そしてやっぱりカラー画面の携帯機を作ってしまうのがセガ…)


 任天堂が、Wiiの基本的な性能を、ほとんどゲームキューブから向上させないという選択に踏み切った時を思い出して欲しいと思います。あの時、ほとんどの人は「任天堂狂ったか?」と思ったのではないでしょうか?任天堂内部(特に海外)でも相当揉めたといいます。しかし、当時の任天堂宮本茂岩田聡という二人の人物が中心になって「性能とか大して関係ないだろ常識的に考えて」と、世に向かって言い放つことが出来たのです。


 彼らは横井イズムの継承者だから。


 宮本茂は確かに大天才です。ですが、任天堂の功績を全て彼の天才性に還元してしまうのは、手塚治虫を神格化し、全て漫画の根源を彼に求めてしまうことと同質の危険性を感じます。近年の漫画批評の世界では、宮本大人氏や伊藤剛氏が中心となり、手塚治虫が漫画の全てのルーツではないという、一種の神の解体作業を通して、大きな功績をおさめています。ゲーム批評の世界は、同じような轍を踏んで欲しくはありません。宮本茂といえども、神ではないのです。宮本茂を最初から出来るだけ神格化せず、その優れた才能を適正に評価することが大切だと思います。


 任天堂の成功を語る際に大事なのは、宮本茂という不世出の「大天才」による華麗なサクセスストーリーにすることなのではなく、山内、岩田、横井、宮本などなど、様々な人物が絡み合いながら紡がれる「継承」の物語にしていくことなのではないでしょうか?aureliano氏の語る、「宮本システム史観」は、あまりにも通俗ビジネス書などにありがちな、単純すぎる英雄論に堕しているように私には思えます。私は、「継承」という言葉を中心に、任天堂を語りたい。


 そしてそこで「継承」されていくものこそが、横井イズムであり、枯れた技術の水平思考という、横井イズムを、これ以上なく端的にあらわした言葉だと、私は考えるのです。