富野由悠季が、自分の著作にて映画は音声を持つようになることで、時間の流入を許してしまった、みたいなことを述べていた。
これはなかなか興味深い意見で、今では映画は音声が付いて当たり前だが、かつての映画は音声を持たないことで時間的な自由度を高く持てたということだ。
確かに昔のチャップリンやバスターキートンの無闇に動きまくる映画は音声を挟む隙などないし、その映画に独自の時間軸が存在するかのような錯覚すら覚えて、自分のような音声付き映画が当然であるような環境で生まれ育った人間には逆に新鮮だったりする。
この話をゲームと繋ぎ合わせてみよう。
堀井雄二と宮本茂というクリエーターはかたくなに自分のゲーム、ドラクエやゼルダに音声を入れようとしない。
その理由は一つだ。彼らは自分の作品に時間が流入することを拒んでいるのである。
彼らが例外的に音声の導入を許したゲーム、ドラゴンクエストソードとスターフォックス64はどちらも、時間軸がある程度固定された強制進行型のゲームであるため、時間的な自由度を確保しようとする必要がなく、結果的に音声の流入もまた許されている。
映画の世界ではほぼ絶滅したと言って良い、時間の流入を拒んだ上での物語構成術は実は日本のゲーム業界で、継承されていたのである。
映画的なゲームということがかつてのゲーム業界ではよく言われたが、僕に言わせれば宮本茂や堀井雄二はかなり初期の段階で映画的なゲームを作っていたのだ。