ゲームのパッケージングの重要性について

 レイトン教授シリーズを遊んでいて思うのは、パッケージングが非常に優れたソフトであるということだ。

 
 約150問ほどの謎をストーリーに上手に絡めてプレイヤーに提示することで、小説やマンガを読み終えたような満足感と、多くの謎を解いたという達成感を同時に味わうことができる。シリーズの展開も安易な量的拡大にも走らず、使いまわしにも堕さず、ユーザーと作り手の間にとても幸福な関係を築くことが出来ており、とても良かったと思う(TGSのアレはともかく)。


 TVゲームというメディアが他のメディアと比較して、特殊なのは、内容をいくらでも詰め込めてしまうところだと思う。FC、SFC時代は、容量の制約が厳しかったので、それほどでもなかったが、主要メディアがCD-ROMになってからはソフトごとのボリュームの差が尋常じゃなく広がった印象がある。もっとも、現在オンラインRPGを覗けば最もボリュームが極大化しているゲームはディスクメディアを使用しないポケモンシリーズだったりするのだけれども。


 これからの時代のゲームを作るということは、どうパッケージングするかということとほぼイコールになるのではないかと僕は思っている。


 昔はボリュームが多いこと=良いことみたいに安易に思えている時代だった。ゲームソフトの値段なんてそれほど差が無かったし(コーエー除く)長く遊べるならそれにこしたことはないからだ。


 でも今は違う。HDハードでアホのように作りこまれた映像を浴びるように楽しむゲームがあれば、携帯機でチマチマとちょっとした暇つぶし的に遊ぶゲームもある、大画面でヨガをやってたりもするし、携帯機で皆と協力プレイだってしたりする。単純にゲームソフトを買って遊ぶといってもその遊びのスタイルが以前より格段に多様化しているのである。(ゲーセンが衰退してるってものもあるんだけれど、その辺を含めて考えると長くなるので今回はその辺は触れません。)



 昨今の任天堂のタイトルは「ミニゲーム集」という言い方で揶揄されることが多い(これももう結構昔のことか?)、確かにミニゲーム集という言い方は間違いではないのだが、大事なのは、それらのミニゲームどうパッケージングしているのか?ということなのだ。


 任天堂に限らず、最近のヒット作である「龍が如く」シリーズもまたパッケージングの優秀さが際立つソフトだ、現実を模した繁華街となんでもこなせてしまうヒーロー的存在を用意することで、多種多様なミニゲームを詰め込んでもゲーム的、世界観的な破綻をきたしていない。優れたバランス感覚を持って作られたソフトだと思う。


 DS、PSPの台頭、Wiiというインターフェース面での革新を推進するハード、そして高精彩な画像を描画できるPS3XBOX360、さらにiphoneという黒船の登場によってゲームというメディアは、プレイスタイルの多様化を招き、かつてないほどパッケージングの重要性が高まっている時代を迎えようとしている。ゲームらしいゲームというスポーツカー的パッケージングの性能を競っていれば良かった時代は終わりを迎えたのだと僕は思っている。