ドラクエ9のテーマは「仕事」
以下の文章にはドラクエ9のストーリーのネタバレがギュンギュンに含まれるので、気になる人は心して読んで下せえ。
今回のドラクエは「仕事」を巡る物語だったのではないかと思っている。
そもそも、今回の主人公は人間ではなく、天使として、人間を守護する存在なのだが、それって一見人間より上の存在に見えるけど、結局やってることって人間に無償で奉仕するっていう、ほとんど奴隷に近い存在なのである。実際主人公が一人で最初に行う仕事は「馬のふんの掃除」だったりする。
これって要は、今回の主人公が行うことっていうのは、基本的に「仕事」だからするんですってことなのではないだろうか?以前のドラゴンクエストシリーズでは、主人公のすることっていうのは、王様から命令されてすることだったり、やむにやまれぬ事情があってすることだったりして、日常的な仕事とはちょっと違う特別な使命を帯びたことだったように思う。しかし、今回の主人公は、ちょっとした事件には巻き込まれるが、基本的には、自分の当然するべき仕事として、事件の解決にあたることになる。
仕事とはなにか
ではそもそも「仕事」とはなんなのだろう?ドラクエ9における仕事観とはどのような質のものなのだろう?
作家の橋本治は「仕事」とは「他人の必要に応えること」だと述べている。仕事で一番重要なものは、その仕事をする「自分」と、自分の仕事を「仕事」として成り立たせてくれる「対象」との「関係」だと。
ドラクエ9における仕事観というものもそれとほぼ同じだと私は思う。今回のドラクエは「仕事」というものをストーリーの中心におくことで、様々な「対象との関係性」を描こうとしているのだ。
「仕事」と「関係」
今回の最初に仲間になるキャラクターの名前が「ニード」なのだが、これって完全に「ニート」を彷彿とさせようとしてますよね堀井さん…ってことはさておき、最初に主人公を冒険に誘うニードというキャラクターは、ニートを彷彿とさせるだけあって「仕事」というものを全く理解していない。主人公を冒険にさそう理由も、他の人が困っているので、それを助けようとするのではなく、自分が目立つことをして、親や村人達に、自分のことを認めさせたいという、非常に利己的な動機からの冒険だったりする。そして、必然的に、その冒険の結果には、親からの叱責が待っている。
その後、幼なじみの少女が大きな街へと旅立つということで、彼女の営んでいた小さな宿屋の跡をニードが継ぐことになる。これってこっそり想いを寄せる彼女のいなくなった場所を守ろうという結構いい感じのエピソードとして描かれそうなものなのだが、ドラクエ9がスゴいのは、この少女を想っての行為は所詮「お客様」という「仕事」をする上で欠かせない「対象」に対する意識を欠いた行為として、ニードの浅はかさを象徴するエピソードとして描かれてしまうところなのである。所詮女の子の気を引きたいっていう程度の意識でなされたニードの行為は結局、小さいながらに評判の良かった宿屋の評判をすっかり落としてしまうのだ。好きな女の子のためになんて漫画やらアニメやらゲームのシナリオでよくありそうな話なのに、堀井雄二はいきなりそんなお話にカウンターパンチを浴びせてくるのである。
ドラクエ9はストーリーの序盤からこんなシビアな「仕事」を巡るエピソードがてんこ盛りになっている。
続く、セントシュタインの街で現れる黒騎士もまた、自分の「仕事」における「対象との関係」を非常に重要なものとして捉えているキャラクターだ。
彼は、自分が守ろうとした王国や、姫が、すでに滅んで過去のものになっていたことに、自分が亡霊に近い存在になってしまっていることに、薄々は気付いていた、しかし、彼はそれでも自分が「仕事」を達成したのだという証、つまり、「対象からの承認」を得ようとしていた。だから、芝居だと気付いていながらも、セントシュタインのお姫様とのダンスによって、想いと達成することが出来たのである。
後半に登場するドミールの里で英雄として讃えられている戦士もまた、彼が戦っていた帝国が突如として滅んでしまったことが心残りになって、成仏できないでいる。黒騎士や彼は自分の仕事を全うしたという「証」が欲しいのだ。自分一人だけでは仕事がいつまでたっても完結しないのである。
つづく、ベクセリアの街でのエピソードに登場する、ルーフィンという若い学者は、「対象との関係」が見えていない、自己満足のみを追求するために「仕事」というものを行っている。だから、彼は、街の人が苦しんでいたとしても、そんなことにはいっさい関心が無く、自分の好奇心を満たすためだけに研究に没頭し続けている。
その結果として、彼は、最愛の人、エリザの異変にすら気付けず、村の危機は救ったのだが、彼女だけが命を失ってしまうことになる。その悲劇に直面して始めて彼は自分が自分と自分のしたいことしか見えていなかったという事実に気付かされるのである。だが、村の危機を救ったという結果は確かに残っている。村人達は、ルーフィンに感謝の気持ちを持っているのだが、ルーフィンが部屋に引き込もってしまっているがために、感謝の気持ちも表すことが出来ないでいるのである。このエピソードがスゴいのは、救われた村人側もまた、ルーフィンにお礼を言えずにわだかまりを抱えていたというところまで含めて描いたところだと思う。このエピソードもまた「対象との関係」というものの重要性を非常に丁寧に描いているのだ。そして、エピソードの締めくくりに、死んだ後のエリザの魂と会話する事が出来る主人公が、仲介役をすることで、ルーフィンは他人との関係の重要性、つまり「仕事」の大切さというものに気付くことになる。村人達もまた、感謝の気持ちをルーフィンに表せたことで、わだかまりが解消することになる。そうやってルーフィンと村人達がお互いに関係を築くことが出来て始めてこのエピソードは大団円を迎え、そのことを誰よりも望んでいたエリザの想いは遂げられ、エリザの魂は成仏(この言い方が適切なのかちょっと疑問なんだけど)することができるようになるのである。ネットで一部発言のみが抽出されて、物議を醸したエピソードなのだが、今回のドラクエのテーマを最も象徴したエピソードなのではないかと僕は思う。
純粋な想いを暴走させる女神の果実
今作の最重要アイテム、主人公がその在処を求めて世界を冒険する動機にもなっている女神の果実は、とある事情で、各地に散らばり、果実を食べた人に強大な力を与えるのだが、基本的に力を与えることによって、もともと悪い人をより悪くはしない。というか女神の果実を口にするのは、悪い人というよりも、どちらかと言えば善良な市井の人々だったり、動物だったりする。そして、女神の果実は、その善良な人々の想いを暴走させてしまうアイテムなのだ。おそらく、今回のドラクエは「仕事」の大切さを描くと同時に、「度を過ぎた純粋な想いの怖さ」も描こうとしているのではないかと僕は思う。他者と最良の関係を築く上で、たとえ始まりは純粋な想いであっても、過剰な力は妨げにもなる。女神の果実を巡る様々なエピソードはそのような残酷な事実をあくまで淡々と描いている。
ダーマ神殿の神官は、世の行く末を真剣に案じ、世の人々を正しい道へ導こうと真剣に考えている、そしてそんな彼が女神の果実の力を得ることで、やろうとしたことは、暴力による、この世の支配だった。
ツォの浜では、遭難し、命を失った跡で女神の果実の力を得た漁師が、娘を案じるあまり、村中の人々が仕事をしないで済むほどの庇護を与えてしまう。そのことが村人達から仕事する意欲を失わせ、村長に邪な想いを抱かせてしまうのだが、娘のオリガだけが、そのことに違和感を抱き、親の大き過ぎる庇護から決別しようとする。オリガの父親も、村長達の邪な願いには罰を与えようとしても、娘に対する純粋な愛情で庇護をしてきたことには変わりはないわけで、決別しようとする娘のことがなかなか認められない(この時の絶叫する父親が超怖い)。それでもオリガは愛情だけで、それ以外のノイズのない世界ではなく、一流の職業人であった父の跡を継いで漁師として生きようとする。そしてそんな彼女の傍らには、新しい家族の可能性の萌芽ともいえる存在がおり、その存在によってようやく父は正気を取り戻すのである。ってかなんかこのエピソードだけ取り出すとちょっとエヴァっぽい?
女神の果実にまつわるエピソードでは例外的に、モンスターが女神の果実を得ることで、人間に害を為そうとするカルバドの集落のエピソードも、モンスターが人間に害を為そうとした発端は、人間に虐められるテンツクというモンスターが、自分が虐められないようにするためという、悪意というよりは、自分の身を守りたいという切実な想いが女神の果実によって暴走するエピソードとなっている。ちなみに、そのテンツクを苛めたおす「じじいとテンツク」というクエストが今回のドラクエにはあったりする。カルバドの集落を乗っ取ろうとした、テンツクをそこまで追いつめたのは、他ならぬ主人公一行なのかもしれないのである。
ちなみに女神の果実を食べても今のところ力が暴走したように見えない存在がたった一人だけいる。それは他ならない主人公なわけだが、これに対しては今後なんか追加エピソードあんのかな?それとも主人公だけは女神の果実の力を適正に扱えたのかな?二つも食ってるのにね。それについてはまだ評価はボンヤリさせておきます。
なぜ「仕事」をテーマにしたのか
なぜ今回のドラクエは「仕事」をストーリーの中心に据えたのだろうか?なぜ、仕事の大切さを訴える一方で、独りよがりになることや、純粋な想いが暴走することの危険さをエピソードのそこかしこに散りばめているのだろうか?
今回はクリア後のボリュームも半端じゃないので、ストーリー部分は「仕事」で言ってみりゃ一度は通過しなきゃならない義務、クリアしてからが本当の意味での「遊び」ですよーっていうちょっとヒネた仕掛けなのかもしれない。
でもやはり今回のドラゴンクエスト9はみんなでやるドラゴンクエストだからではないかと自分は思う。「対象との関係」を大切にすることで面白さが二倍にも三倍にもなるようなドラゴンクエストになってるからではないかと思う。
今回の冒険は一人だけでは抱えきれないほどのボリュームがあるし、一人だけでは味わいきれないほどの仕掛けがふんだんに散りばめられている。
だからこそ、堀井雄二は、今回のドラクエ9というゲームのシステムの背後にある、設計思想に沿った物語を紡いだのではないだろうか?
ドラゴンクエストが未だに国民的RPGとして圧倒的な人気を誇る理由、それは、システムに即した物語というものを紡げる、堀井雄二というあまりに希有な才能によって支えられているのだという想いをドラゴンクエスト9を100時間以上プレイすることで改めて確認した次第である。