脱物語化と脱ゲーム化の10年間〜00年代のゲームシーンを巡る二つの中心点 後編〜

 いよいよというかやっと最後になりそうです。なんのかんので記事5つも書く事になるとは思わなんだ…。まあでもこれで自分なりにこの10年を整理整頓出来そうなので、最後まで頑張って書こうと思います。


 前回、この10年間でゲームシーンは海外のゲーム開発会社を中心とする重厚長大化、マクロ化が進み、一方では、任天堂を中心とする軽薄短小化、ミクロ化が進んだ10年間であると言い、マクロ化したゲームの象徴がGTA3、ミクロ化したゲームの象徴がメイドインワリオであると述べました。そしてメイドインワリオの画期的なポイントとして、串団子型レベルデザインと、物語の解体とインターフェースへの着目という3点を挙げました。そして前回はその中の一つ、串団子型のレベルデザインの即効性とそれでいてちゃんとボリュームも保持できるという特性について語り、マリオギャラクシーとか脳トレとかWiiFitみたいなメイドインワリオ以降に生まれたヒット作は何れも串団子型レベルデザインを採用していますよってことを指摘し、でもマリオギャラクシーはヒットしたとは言っても若干物足りない売上で、WiiFitとか脳トレはなんであんなに爆発的に売れたのかってことの原因として、物語の解体という要素があるのですってところで、次回に続いちゃいましたよね。


 はい、ということで、今回はメイドインワリオというゲームが如何にゲームの物語を解体してしまったのかということを語ろうと思うのですが、その前に3つ目のポイント、インターフェースへの着目ということを先に語らせて下さい。っていうかみんなさ、インターフェースについての話って大体想像つくでしょ?直感的で体感的なインターフェースでより広いユーザーにアピールすることに成功した任天堂はどうたらって内容ですよ。だからまずはメイドインワリオから任天堂が得たと思われる、インターフェースが如何にゲームにとって重要であるかという教訓っていうか天啓?について解説していきたいと思います。

全てはインターフェースの下に

 メイドインワリオが、全く無関係な内容のゲームを暴力的なまでに繋いでしまうことで、新しいゲーム体験を作り出したというのは、前回でも解説しましたが、実はあれだけでは説明不足なんですよね。あれだけの説明では、なぜ、無関係な内容のゲームが、一つの流れを構築できてしまうのかがわからないんですよ。マリオギャラクシーみたいな、基本的にはマリオをずっと操作するゲームならまだわかるんです。どんな障害が来たとしても、マリオを巧みに操作することができれば、障害は突破できるのだから。だからマリオギャラクシーというゲームは、バラバラに点在する球状の地形、すなわち団子の集合を、マリオという串によって貫いているわけですね。だからあのゲームは一貫した内容を持つ事が出来ている。


 でもメイドインワリオというゲームには、プレイヤーが操作する確固たるキャラクターというのは存在しません。ある時は、マリオになったり、ワリオになったり、車になったり飛行機になったりします。プレイヤーキャラクターという「串」が存在しないのに、どうやってメイドインワリオでは、バラバラに点在する団子を刺し貫いたのでしょうか。


 メイドインワリオが用意した、団子を貫くための「串」それは、コントローラのボタンなんです。


 メイドインワリオに限らず、全てのゲームはボタンを操作すること、インターフェースに触れることで、ゲームが始動します。だからどんなに内容が異なるゲームだとしても、すべてのゲームはボタン(インターフェース)の下にひれ伏す形でしか存在できないんです。どんなゲームだろうと、ボタンで操作するという一点のもとに集約される。この確信によって、メイドインワリオというゲームは、ありとあらゆるゲームを刺し貫き、全てのゲームを繋いでしまうことに成功したんです。


 だからメイドインワリオというゲームは基本的に、続編を出すたんびに、インターフェースが変化します。ボタンによって全てのゲームを繋いだ以上、ボタンそのものが変化することによってでしか、このゲームもまた変化できないんです。どれだけ、あらゆるゲームの内容を細分化し、切り刻んだとしても、「ボタンを押す」というプレイヤー側の動作までは切り刻むこと、変化させることはできないという認識に任天堂は至ったのではないでしょうか。DSのタッチパネルや、Wiiのリモコンというインターフェースの大幅な変化を促したのは、このタイトルの影響が大きかったのではないかと僕は考えます。


 タッチパネルや、Wiiリモコンというインタフェースは、従来の入力の拡張という面もありますが、従来の入力の細分化という面がかなり大きくあります。従来ならボタン一つで処理出来ていた動作を、リモコンを振るや突くや捻るなどの動作をしないと適切な入力として判定されなかったりするわけです。これってゲームの進化という面もありつつ、ゲームの煩雑化、見ようによっては退化ともとれる部分もあるわけで、従来のゲームをやる層にはあまり受けがよろしくなかったりします。それは、このインターフェースが、マクロ的なゲームの発展とは逆方向の、ゲームをひたすら細分化していくミクロ方向の発展だからではないかと思うのです。


 ちょっと話が飛躍しますが、ゲームのマクロ化っていうのはゲームというメディアで大きな嘘を楽しもうとする方向だったりします。まるで実写のようなつくりこまれた3DCGの箱庭の中で、自分が普段では絶対に体験できないようなことを目指す方向ですね。海外の大作ソフトってそんな感じですよね。逆にゲームのミクロ化っていうのは、ものすごく小さい範囲での本当の体験を目指す方向なんです。メイドインワリオというゲームはどんだけ内容がバラバラですっ飛んでても、結局はボタンを押すのって楽しいっていう、確かなリアルが存在するんですよ。そんなこと言ったら全てのゲームはそうだろとか言われそうですが、脳トレとかWiiFitで得られる体験って大嘘では無いですよね。たしかに脳トレをやればちょっとした脳のトレーニングになるし、WiiFitで筋トレをやればそれはもの凄く小さい範囲ではありますが、確かな体験が存在するじゃないですか。なんでマクロ化したゲームとWiiリモコンみたいな新しいデバイスっていまいち噛み合って進化してくれないのかなとか一時期考えてたりもしたんですが、マクロ化したゲームで大嘘を楽しみたいなら、Wiiリモコンみたいな小さいけど確実な現実を伝えてしまうインタフェースって実は適してないのかなとか今では思ったりします。だからやっぱFPSってマウスが最高なのかなとか。まあこの辺ままだちょっと考えが詰め切れてませんし、今後まだまだ境界が揺らぐポイントだと思ってます。でもこの10年間でゲームが巨大過ぎる嘘と小さいけど確実な現実体験の二方向に進化してきたということはある程度はおわかり頂けたのではないでしょうか。


 ということで、インターフェースと物語の関係性についてちょっと言及し始めたことだし、インターフェースの解説はこの辺にして、最後に項目に行きたいと思います。メイドインワリオにおける画期的な要素の3つ目、物語の解体についてです。

ふるまいこそ全て

 なんのかんのいっても、大抵のTVゲームはそのゲームごとに物語を持っています。物語を持っていないゲームといったら、一部の音ゲーか、レースゲームとか、サッカー、野球っていう現実にあるスポーツ(ゲーム)を模倣したゲームくらいではないでしょうか。最近ではストーリー性のあるスポーツゲームだって少なくありません。やっぱりマリオは、なんの目的も無く、飛んだり跳ねたりするわけではなく、ピーチ姫を助けるという確固たる目的があり、それを達成することで、マリオの物語はひとまず終わりを迎えられるのです。


 ですが、これまた大抵のゲームの場合、ゲーム中のキャラクターがどんな物語を抱え、どんな動機で冒険の旅を続けているのかなんてことは、プレイする我々にとってはどうでもいいんですよ。内心ではマリオは、ピーチ姫を助けるべくクッパに憎悪の炎を燃やしながら苦難の旅を歯を食いしばりながら続けてるのかもしれません。でもこっちにしてみりゃそんなんマリオの気持ちなんて知ったこっちゃないんです。そんなことより、マリオと一体になってステージを気持ちよく駆け抜ける時の快感とかのほうが遥かに重要なんです。要するに、ゲームというのものは、キャラクターの内面よりも、キャラクターのふるまいの方が重要なんですね。


 もちろん全てのゲームに物語なんてものはいらないなんてことは言いません。物語の目的と、ゲーム中のふるまいの楽しさを上手く結びつけて、ゲーム中のキャラクターの気持ちとプレイヤーの気持ちを上手くシンクロさせていくゲームというのも少なからず存在します。ドラゴンクエストとかゼルダの伝説なんかはその辺かなり気を使ってゲームデザインすることで、ゲームと物語の調合を巧みにおこなっていると思います。


 昔のゲームは、そんなこんなで上手く物語とゲームの間で折り合いを付けれていたんだと思います。しかし、ゲーム機の性能が、上がるにつれて、ゲームと物語の関係は次第に折り合いが悪くなってきます。映像を過剰なくらい綺麗に描写できるようになってしまったので、物語部分が無駄に肥大化し始めるんですね。


 多くのゲームにとってはとってつけたようなストーリーだとしても、ゲーム部分が面白ければそれで良かったんです。ストーリーがどれほど適当でも、キャラクターの魅力っていうのは、ストーリーとは別の次元で伝わってきたりするものですから。漫画評論家の伊藤剛が言うところの、キャラクターの魅力よりも、キャラの魅力の方が、ゲームというメディアについては、重要だということなのだと思います。まあこの辺のキャラクターとキャラの違いっていうのは、伊藤剛著の「テヅカイズデッド」を読むと詳細に解説してありますんで、興味がある方は読んでみて下さい。


 そうやってストーリーが無駄に肥大化することで、あのマリオですら、「スーパーマリオサンシャイン」とか「スーパーマリオギャラクシー」の二作品においては、ゲームの冒頭に結構こってりとしたムービーシーンでもって、今回の物語の導入を説明するようになってしまうんです。まあこれはこれで一概に悪いというわけでもないんですが、サクッと初めてサクッと止められるというマリオの魅力が若干削がれてしまっているのは事実なんじゃないかと思います。


 いっそ物語の説明なんてやめて、「はい、これからゲームを始めますよー」って言ってゲームを始められたらどんだけ良いかと思うんですよ。よっぽど物語とゲームを上手く結び付けているゲームでも無い限り、ムービーシーンとかガンガン飛ばしてゲーム始めたい人だって結構いる筈ですから。なんでそこまで、ゲームは物語を捨てることが出来ないのかと言えば、それはやはり、キャラクターのふるまいの魅力っていうのがすごく大きいんじゃないかなと思います。物語はいらなくても、キャラクターの魅力っていうのは、ゲームにとって捨てがたいものがあるんではないかっていう。

肯定的な破壊

 
 そんなこんなでやっぱり長い前振りからようやく話はメイドインワリオに至るのですが、このゲーム、ワリオを始めとしてキャラクターは多数登場するんですが、プレイヤーが自ら操作するキャラクターは一人も出てきません。プレイヤーは、細切れになったミニゲームをガンガンさばいていくわけですからね。もうお気づきの方もいるかもしれませんが、このゲーム、登場するキャラクターによって、「はい、これからゲームを始めます」と言ってゲームを始めてしまうゲームなんですよ。ワリオ達がお題を出すようにしてプレイヤーにゲームを提示するという、ゲームの中でゲームをやるゲーム、それがメイドインワリオなんです。


 これ、かなり画期的なことだと僕は考えています。マリオですら、用意せざるを得なかった冒頭の説明シーンを一気に取っ払ってしまったんですから。さらに、メイドインワリオでは、一回5秒のミニゲームが200種類登場するんですが、一回5秒で終了してしまうミニゲームに、物語なんて存在するのでしょうか?それらのミニゲームは、マリオがクリボーを踏むだけとか、リンクが洞窟に入るだけとか、徹底してキャラクターのふるまいのみを抽出しています。そうすることで、本来マリオやリンクが持っていた筈の目的や物語というものは、ほぼ消失してしまっているんです。しかし、キャラクターのふるまいが存在するのも確かなので、それらのゲームの面白さを(ほんの一部分だけど)味わうことは出来ているんですよ。


 メイドインワリオは、「はい、これからゲームを始めます」という掟破りの号令からゲームがスタートし、ゲーム内容を極限まで細分化することで、本来ならゲームが持っていた筈の「物語」を解体し、ふるまいのみを抽出することに成功したゲームなんです。


 この物語の解体/消失って、言ってみれば、ゲーム中のふるまいに意味なんて無いですって言ってるようなものでもあるんですよ。メイドインワリオミニゲームって、どれもこれも清々しいくらいに無意味ですよね。ステーキ肉を切るとか指を鼻に入れるとかさ。物語を解体してしまうことで、ゲームの無意味性を暴いてしまったんです、このタイトルは。でも僕はそれが悪いことだとは思いません。なぜならこのゲームってスゴく面白いから。本当に無意味の連なりで出来上がっているし、それって要はゲームで遊ぶこと自体が本質的に無意味だってことでもあるんだろうけど、でもやっぱりゲームって面白いなってこのゲームをやってると思える。スゴく破壊衝動に満ちたゲームなのに、すごくゲームを肯定的に優しく捉えていると思う。


 でもそんなゲームの本質的な無意味さを暴かれてしまったら、それ以降のゲームはただではいられないんですよ。よっぽどゲームを面白くするとか、よっぽど物語を練り込むとかしないと、無意味だっていう圧倒的事実に押しつぶされてしまう。それに対して任天堂は本当に根源的なやり方で答えを出します。


 ゲームのふるまいそのものに意味を与えてしまうんです。


 そうやって生まれたタイトルが、ゲームをすることで、脳のトレーニングが出来る「脳トレ」であり、筋トレやヨガが出来る「WiiFit」なんですね。これらのゲームがいずれも、ゲームを始める際にゲーム内のキャラクターが、「はい、これからトレーニングを始めますよー」と呼びかけてくれることにも注目してください。どちらのタイトルも、物語の呪縛から逃れ、さらにゲームの本質的に抱える無意味さからすら脱出しつつあるタイトルなんです。それに比較してしまうと、マリオギャラクシーというタイトルは、同じ串団子型のレベルデザインを有していますが、物語や、ゲームの無意味性という点においては、かなり保守的な部分があるタイトルになってしまうんですね。まあ個人的には大好きなゲームですけど。

今後の展望

 そんなこんなで、メイドインワリオが喚起したインターフェースへの着目と、物語の解体っていう二項目について解説してまいりましたが、やっぱりスゴく長くナッチャッタね…。でもこれでもまだ結構な内容を端折ってるんですよ。野安ゆきおさんとかも語ってたことですけども、ゲームキャラクターが直接プレイヤーに語りかける形式ってことにももう少し掘り下げて語りたかったんですが…、まあまた別の機会に改めて語りましょう。ちょろっとだけ触れておくと、ゲームキャラがこっちを向いて語りかけるってことは、ゲームキャラクターとプレイヤーの視線が合っているということでもあります。それってつまり主観視点のゲームだってことなんですよ。実は、脳トレとかWiiFitメイドインワリオって主観視点のゲームなんです。これを基点にすると、日本ならではの主観視点ゲームのあり方を述べられるんですが、まあまた長くなりそうねコレ。


 最後に軽く今後の展望を書いて終わりましょう。海外のゲーム業界を中心点にして盛り上がったゲームのマクロ化は、そろそろ曲がり角にさしかかるように思えます。モダンウォーフェア2の爆発的売上がピークなんじゃないでしょうか。これから急激に勢いが落ちるとも思えませんが、そろそろ海外大手開発会社の赤字ぶりが洒落にならない状況になってるんじゃないかなとか思っちゃいます。まあだから今こそ洋ゲーで遊ぶべきですよ皆さん。こんだけ金を湯水のように注ぎ倒した贅沢なゲームが遊べるのも今のうちかもしれませんから。


 一方、任天堂を中心に盛り上がったミクロ化の方向はもうちょっと長続きするんじゃないでしょうか。その理由は単純に、マクロ化よりも盛り上がる時期が遅かったからですね。レイトン教授とかラブプラスみたいに、任天堂以外の会社でもミクロ化したゲームの成功例が出始めてるってのも結構大きいと思います。任天堂がバックアップするらしいドラクエの海外展開にも要注目なんじゃないでしょうか。まあなんのかんの言っても日本のゲーム業界は携帯機のほうが向いてるんじゃないかと個人的には思ってます。小さい器に職人技を盛り込む方向の方が気質にあってそうだしさ。でも、もう少し洋ゲーに対抗できるマクロ的なゲームだって作れるんじゃないかなとも思ってるんで、もうちょっと据え置きで足掻いて欲しいかなって気持ちもあります。でもあくまで今よりもう少しくらいなんですが、その辺のさじ加減ってちょっと難しいですね。


 最初はJRPGがとかレベルデザインがとか言ってたのに、いつの間にかこの10年くらいを総まとめするような流れになってしまいました。まあもう少しで2010年代になっちゃうことだし、丁度良かったと思います。これで年が越せそうです。ぜんぜん書き足りない部分もありますが、それらはおいおい単独の記事にでもしていこうと思います。まさか5回に分けることになるとは思いませんでしたが、最後まで読んでくれた方はお疲れさまでした。


 これで本当に最後の最後ですが、この10年を日本のゲーム業界に絞ってまとめちゃいましょう。かなり飛ばして書くので、眉に唾つけながら読んで下さい。


 この10年の日本のゲーム業界は、ゲームを抜いて物語を一人歩きさせる方向性(泣けるギャルゲーなどの一連のノベルゲームブーム)と、僕がこれまで延々語ってきたメイドインワリオによるゲームの物語を解体してしまうという方向性の極端な二方向に進化してきました。ですが、これらの二方向にどちらも共通するのは、プレイヤーにとって、切実な内容であろうという態度です。ノベルゲームは、いっそゲーム等不要とすることで、プレイヤーの心を強く揺さぶる物語を得ました。メイドインワリオはプレイヤーにとって面白いゲームであろうとするあまりに、ゲーム中の物語をズタズタに引き裂いてしまいました。どちらの方向も、より内容を深く研ぎ澄ますために、不要な要素を削ぎ落としたのです。我々が聴きたい歌を歌わせることが出来る初音ミクや、アイマスMADの隆盛もまた、キャラクターとユーザーの直接的な関係を築く上での不純物を取り払った結果としてあるのではないかと私は考えます。そんな10年間のさらに先にあるのは、おそらく脱ゲーム化した物語が再度ゲームを獲得する方向であり、脱物語化したゲームが再度物語を獲得するという方向ではないでしょうか。そんなゲームのさらに先を示すタイトルは実は既に発売されています。それは現在異常な売れ行きを示しているトモダチコレクションです。このタイトルこそが、メイドインワリオが解体し尽くしたゲームの物語を再度復活させつつある、ゲームの次の道を示すタイトルなのではないでしょうか。だからこそ、トモダチコレクションの爆発的ヒットから目を逸らしてはならない、私はそう思うのです。


 こんな事言って五年後くらいに恥かいてないといいんですけどね。おしまいです。