非常に極端な話をすれば、ゲームにおけるキャラクターとは、ブラックコーヒーに入れる砂糖のようなものである。
砂糖を入れることによって確実にコーヒーという飲み物の間口は広くなるし、そこから別の可能性が開けることだってある、だが、どこかで純粋なコーヒーに対してノイズとして機能してしまう。
ゲームは動詞によって出来ていると言ったのは田尻智だが、この言葉は、同じ動詞さえ行使できるのであらば、ゲームキャラクターはどのようなものでも入れ替え可能であるということも示している。スーパーマリオブラザーズにおいてマリオとルイージがまったく同じ軌跡でジャンプすることが可能なことからもそれは明らかだ。
ゲームキャラクターはゲームにとってなんのために存在するのか?どこまでいってもゲームにとってキャラクターとは客寄せパンダの域を出ないのだろうか?
僕がゴーストトリックというゲームを評価するのは、そのような問いに一つの解答を示しているのではないかと考えるからである。
このゲームで主人公のキャラクター、「シセル」は開始と同時に命を失い、過去の記憶を失い、自分というキャラクターについての情報が一切明かされないところからスタートする。彼に出来るのは、様々なモノにトリツクこととアヤツルこと、つまり様々なモノに対して動詞を行使することだけである。
そう、このゲームは、TVゲームにおけるキャラクターというものが如何に曖昧で不安定で下手すれば簡単に入れ替えも可能な存在であるということを物語の核心に据えたゲームなのだ。自分というキャラクターに対する問いかけこそがこのゲームの推進力なのである。
自分についての一切を知らず、動詞を行使することだけが出来る主人公が辿りつくゴールには何が待っているのか、それは実際にゲームをプレイすることで確かめて欲しい。良質な佳作で留めておくには惜しい、TVゲームに対する根源的な問いかけがなされている傑作である。