ゴジラにまつわる諸問題とその解決策について(映画『シン・ゴジラ』レビュー)

※注意!映画のネタバレしてます!


世界で最も有名な怪獣の中の怪獣、それがゴジラである。だが、実はゴジラとは非常に多くの問題点を抱えた、映画的には扱いづらい存在でもあることをご存知だろうか。


最も致命的なのは動きが鈍重であるということだ。そしてなぜか年を重ねるごとに巨大化するその体躯が加わることで、都市に突如現れて急襲しようにも、そのデカさ故に人間側が否応なしにその存在に気付いて、問題に対処するための時間を与えてしまう。それに対して、こちらも日本が誇る怪獣の雄、ガメラには飛行能力があるので、突如として大都市に飛来し大暴れするという芸当が可能になる。平成ガメラ3部作が現在まで語り継がれる伝説的な作品になっている要因として、ガメラのその機動力の高さによる貢献は非常に大きい。


現代においてゴジラ映画を作るということは、そのあまりに鈍重なゴジラという怪獣の抱える諸問題に対して解答を提示するということでもある。


ハリウッドで作られた『インディペンデンスデイ』でもおなじみのローランド・エメリッヒ監督によるゴジラはその問題に対してあまりに合理的な「動けるようにする」という解答を用意した。しかし、その合理性はゴジラの最大の長所でもある、圧倒的に完成されたフォルムの美しさを根本から奪ってしまった。ここにゴジラ問題の根深さがある。やっぱなんやかや言ってもゴジラってあんまり動けないあの立ち姿こそが超カッコいいのである。ぱっと見でこれじゃない感ビンビンのエメリッヒ版のあれはやっぱりゴジラと呼ぶにはキツいものがあった。

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2014年に公開されたギャレス・エドワーズ監督によるゴジラはよりシンプルな態度でもってその解答を示して来た。その解答とは、あまり動けないなら、動けないなりに出来ることを最大限格好良く見せようというものだ。


ドラマ部分は色々とメタメタだったギャレス版ゴジラであるが、溜めに溜めまくってからのゴジラの初登場からの咆哮や、溜めとハッタリの効いた放射熱線を吐くシーンの格好良さに関しては文句のつけようがなかった。出来ることがそもそも少ないならいっそその少ないシーンに全ての労力を注いで演出をし、初登場シーン直後の格闘シーンはバッサリカット、っていう潔い作りはゴジラ問題に対する現状における最良の解答の一つであることは間違いないだろう。


さて、というわけで『シン・ゴジラ』なわけだが、本作においてはゴジラ問題の解答が大きく2つ提示されている。以下から映画本編のネタバレが含まれるようになるので、本編まだ観てない人は気をつけて。


一つは、ゴジラ自体を絶えず変化、進化する存在として位置づけたこと。これにより、最初は小型のゴジラを登場させることで、あまり大事として認識される前に、街に急襲をかけることが出来るようになった。そして、映画の進行に合わせて巨大化していくことで、ゴジラ本来の迫力とフォルムも維持することが可能にもなった。


これは行き過ぎた科学技術の産物としてのゴジラという側面と、神の化身としてのゴジラという側面を両方満たす上手い解答だと思う。こうすることで、ゴジラ自体のアップデートをかなり理想に近い形で成功した。これだけでも『シン・ゴジラ』は偉大な成果を達成したと言える。


しかし、この文章の本題はここからだ。『シン・ゴジラ』で提示されたゴジラ問題に対するもう一つの解答、それは、ゴジラという鈍重な脅威に対して、日本政府という意思決定に時間のかかるこれまた鈍重な組織の在り様をかつてないレベルで詳細に描いた上で、ゴジラと日本政府をがっぷり四つに組ませるというものである。相手が鈍重であれば、こちらも鈍重にすることで問題が相殺されるという、まさかの解答である。


この映画が非常にユニークなものになっているのは、ゴジラという脅威に対して、然るべき対処をするため、自衛隊が出動するための準備や発令をし、会見を行い、自衛隊に出動許可を与え、作戦を立案し、適切な場所に配備し、発砲許可を与えた上で、発射された弾頭がゴジラに着弾するまでの「意思決定」から「結果」に至るまでのプロセスを徹底して具体的かつリアルに描いたところである。これにより、個々の意思決定はテンポよく迅速に行われるにも関わらず、日本政府という組織全体としての動きは鈍いというシステム上の問題を、言葉による説明ではなく描写の積み重ねで観る側に体験的な実感として伝えるという離れ業に成功している。


総勢329人のキャストは単に賑やかしや泊付けとして必要とされたわけでなく、このプロセスの稼働する上での歯車として機能するために必要とされている。恐ろしいことにこの映画の人物達は歯車以上の余計な主張を許されることはほぼない。


それはこの映画の最大の美点にもなっている。よく駄目な日本映画にありがちな周囲が大変なことになっているのに、その状況そっちのけで自分とその仲間達の世界に入り込んじゃって大声あげちゃったりしてなんか感動的な音楽被さって観る側はどんどん覚めて行くっていうあの手の展開が、この映画では一切無い。あくまでも状況を動かすプロセスに対して貢献する姿のみが細かいカット割りで抑制されたトーンで描かれ続ける。


シン・ゴジラ』という映画は、ゴジラという未曾有の脅威に対して、己の職務を真っ当することで対処しようとする仕事と人にまつわる映画になっているのである。


だからこの映画には決定的に無能な人間というものがほぼ登場しない。大杉漣演じる総理大臣は確かに優柔不断な態度や、決断ミスを幾つか犯したのかもしれないが、決定的に総理としての資質を欠いているような偏った描かれ方もしていない。しかし、この映画はほんの一手や二手の決断の遅れが、やがて致命的な対応の遅れとなって甚大な被害を及ぼすに至るまでを、徹底したプロセスの描きこみによって、というか個々人が有能であっても、あまりに複雑なプロセスはその有能さを殺してしまう場合もあるという事実を、観客にわかる形で提示してしまう。


更に、この映画がすごいのは冒頭は豪華キャスティングが揃い踏みになっての会議に次ぐ会議、顔アップに次ぐアップという俳優顔映画になっているのだが、後半に至って、顔を描く事を止めるところである。


最後の決戦に至るにあたり、長谷川博己演じる主人公はある演説を打つ、その時それを聞く現場のスタッフ達の顔はほぼ映されない、さらに現場を指揮するにあたっては主人公すらもある合理的な理由によってマスクを被り、自分の顔を覆ってしまう。


329名というかつて無い規模の俳優陣を擁しながらなぜ最後にその俳優達の顔すらまともに映す事を止めてしまうのか。それは名も顔も知られた英雄的な人物の力ではなく、無名の職業人達の働きこそがゴジラにすら対抗できる力に成り得るというこの映画全体のメッセージではないかと僕は受け取った。


それはそれで非常に感動的だし納得も出来るし、その日本の基盤の技術そのものを駆使した最後の決戦はもう映画館で観て欲しいんだけど、前半の俳優演技大合戦状態が相当見応えあるのも確かなんだよね。とくに官房長官の江本明と防衛大臣余貴美子ゴジラに優るとも劣らない演技怪獣ぶりは素晴らしい。


それにしてもまさか庵野秀明樋口真嗣がここまで見事な、トータルコントロールの効いた映画を作るとは思わなかった。本当にごめんなさいですよ。政府や自衛隊が使用する用語に徹底してこだわったと聞いた時はまたディティールにばっかりこだわって中身スカスカで全体チグハグの映画作るのかと思ったら、ディティールの積み重ねではなくて、ディティールの連動によってここまで見事な映画になるとは、いや本当に恐れいりました。


ゴジラ自体の描写についてももう少し触れておこう。今回のゴジラの破壊描写には全体に「粘り」、「執拗さ」のようなものがあり、それがこれまでの庵野秀明樋口真嗣によるアニメや特撮の圧倒的な切れ味とは違う印象を僕自身は受けた。その「粘り」や「執拗さ」は、映画を観た人ならば、3.11で起きた事象の影響を受けてのものだと理解するだろう。そしてあの経験を踏まえた我々には、執拗に人が死ぬ描写を加えなくても、最低限の描写でそこで何が起きているのかを想像出来てしまう。そして、ゴジラが登場した直後に一種奇妙なまでに日常が回復する姿にも、リアリティを感じてしまう。陳腐な言い回しなのでまさか自分が使うことになるとは思わなかったけど、この映画は間違いなく3.11以降の映画であり、3.11の経験を踏まえたゴジラである。1954年版のゴジラ第二次世界大戦での大空襲の影響を受けて作られたことを考えれば、極めて本質的な形で初代ゴジラの在り方を継承した映画だと言えるだろう。


まだ一回しか観てない状態でこの文章を書いているので、幾つか見落としがあるかもしれないが、まあ一回目の視聴で受けた印象はこんなものである。『巨神兵東京に現る』での経験を踏まえた放射熱線描写なんかも素晴らしかったがこの辺にしておこう、なにせ情報量が多いから一回の視聴で全部受け止めるのはまず無理なんである。というわけでこの夏は『シン・ゴジラ』を何度も観る夏になるだろう。あの冒頭で消える博士は押井守の映画っぽいけど、あの博士自体は実は宮崎駿がモデルなんじゃねえの?とか睨んでるんだけど、二回目はそんなことを考えながら観てみよーっと。


ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

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