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00年代のゲームシーンを巡る二つの中心点

ゲーム 任天堂

 FF5に端を発する日本のRPGの独自進化の過程、RPGからJRPGへと変化していく過程について書こうと思いましたが、いつまでたっても終わらない感じがしてきたので、今回で一端締めようと思います。FF5についてはまた別の機会に。あと、本当はこの文章って「レベルデザインはいらない 後編」にあたる文章なんだけど、タイトルと全然関係ないっていうか、こんなタイトルではおさまりきらない内容になってきたので、外しちゃいます。やっぱ勢いでタイトルつけるもんじゃないよな。


 ということで、前回JRPGFPSとピークを迎えた時代が二世代もずれてるんだから、FPSと引き合いにJRPGを揶揄したり嘲笑したりする態度ってどうなの?っていうようなことを述べてきましたが、では、海外のFPSを始めとする主要ジャンルと比肩して語るべき日本での盛り上がりを見せているゲームジャンルとは何なのでしょう?前回はトモダチコレクションじゃねとか言ってましたが、FPSトモダチコレクションをいきなり比較して語るのは、さすがに難易度が高過ぎます。ということで、今回は、あと一ヶ月ちょっとで終了する2000年から2009年まで、いわゆるゼロ年代の10年間の海外と日本のゲームシーンの変遷を振り返りつつ、最終的には、この10年間を総括して、次への10年間の展望を探るといった内容のことを述べていきたいと思います。まずは2001年に発売されたあのタイトルから話を始めたいと思います。けっこう長い記事になりますが、良かったら最後までお付き合い下さい。

GTA3の衝撃、日本のゲーム業界の低迷

 この10年間で最も画期的なタイトルを選べと言われたら、おそらく少ない無い数の人がこのタイトルを挙げるのではないでしょうか?そのタイトルとは、2001年に発売されたグランセフトオート3(以下、GTA3)です。


 このタイトルのどこが画期的なのかと言えば、様々な要素が挙げられますが、その最たるものとして挙げられるのは、プレイヤーに圧倒的な自由度を保証する3D箱庭空間の確立であることは、今更指摘するまでもないでしょう。


 そしてGTA3を語る上では、もう一つ、かつての時代の雰囲気や空気感をゲーム中に再現するという文化性の導入という要素も欠かません。特に、こちらの魅力は、GTAシリーズの強烈な、他の追随を許さぬオリジナリティにもなっており、本家と、GTA3が大ヒットしてから大量に出た模倣作との売上の差に圧倒的な違いがある最大の理由は、このゲーム空間中に満たされた文化の香りの有無なのではないかと個人的には思っています。その分、このソフトって海外のゲームシーンでもちょっとだけ例外的な位置にあるソフトなのかなあとか思いますが、このことについてはまた別の機会に触れましょう。←最近こんなんばっかだなおれ。


 なぜこのような作品が海外のゲーム制作会社から誕生したのでしょう?かつて海外のTVゲーム、いわゆる「洋ゲー」は大味で、雑なゲームの代名詞とでも言った存在でしたし、なにをどう考えたらこんなゲームが生まれるのか?っていう奇ゲーのたぐいも色々と生まれたきた場所でした(場所っていうには範囲広過ぎるけど)。それが、PS時代あたりから次第に変化の兆しが見え始め、次の世代のPS2時代(ゲームキューブ(以下GC)、XBOX時代でもあるけど、簡略化のためPS2時代と表記しとく)には、深刻なネタ不足、ユーザー離れに陥った日本のゲーム業界を尻目にうなぎのぼりの成長を見せます。この時期は、GTA以外にも海外のゲーム会社は多くの傑作、名作ゲームをバンバン市場に送り出しました。前の記事でも触れましたが、家庭用ゲーム機におけるFPS市場が確立されたのもこの頃です。なぜ、GTAの誕生のみならず、多くの海外のゲーム会社が2000年代前半から2000年代半ばにかけて急成長したのでしょう。


 その最大の理由は、海外のゲーム開発者達が実現したいと思っていたことがようやくできるくらいにゲームハードの性能が向上した。ってことに尽きるのではないかと僕は思います。


 以下の対談で宮本茂も述べていますが、よくも悪くも海外の開発者達の写実的なリアリティへの執着というのは、我々日本人からすれば、ちょっと理解できないくらいに尋常ならざるものがあります。ちょっと宮本茂と岩田社長の発言を引用しますね。

宮本
はい。
初代のマリオは16×16のドット絵だったんです。
で、当時の外国のゲームは
人のキャラクターを描こうとする場合、
どうしてもリアルな等身で描こうとするんです。


岩田
どうしても8頭身で描かないと
気がすまないみたいに感じましたよね。


宮本
あるいは6頭身とか。
ところが使えるドット数が少ないですから、
顔は2ドットくらいになるんです。


岩田
それだと目も描けないですし、
基本的にはマッチ棒人形ですよね。
初期の外国のビデオゲームには
そういうキャラクターがよく登場していました。


宮本
それがどうしても人には見えないので
「これはきっと絵の描けない人たちが描いている」と
僕は信じて疑わなかったんです。


岩田
(笑)


社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』


 なぜ、ここまでリアルさにこだわるのかは詳細に分析していたら、このエントリには収まらない内容になることは確実なので、踏み込んだ話はしません。重要なのは、海外の開発者達の多くは、リアルな表現というものにすごいこだわりを持っているということと、ファミコン時代は、ハード性能の限界から、彼らのこだわりはまるでゲームに反映できなかったということだと僕は考えます。そう考えると、かつて海外のゲーム会社からユニークなゲームがでていた理由は、おかしな考え方をして、おかしなタイトルが生まれていたというよりも、普通なリアルさを表現しようとしたら、ハード性能的にどうにも無理だったから、結果的に出来たものが、無茶苦茶なことになっていたから、なのではないでしょうか。


 そんな飽くことなきリアルさへの渇望を抱く彼らの元へ、ついに彼らの希望が完璧にとまで言わなくてもかなり高い水準で達成できそうなハードが現れた時代、それがPS2時代だったのではないでしょうか。初代PSとかN64でも3Dは扱えましたが、まだまだ性能的に物足りなくて、よっぽど巧みにハードを使いこなし、かつゲーム作りにも長けたメーカーでないと、良質な3D箱庭ゲームを作ることはかなり困難なことだったと思います。それがPS2になって、だいぶ性能も向上し、DVD再生機能を搭載ってこともあって発売当初から相当なハイペースで、普及もしました。もっとも、PS2って決して開発が楽なハードってわけでもないのだけど、性能さえ引き出してしまえば、それなりに自由に3次元箱庭ゲームが作れてしまうので、元々技術的なレベルは相当高かった海外の開発者達には、ついに自分たちの時代が来たってなもんだったんじゃないかと僕は考えます。


 一方その頃、海外のゲーム会社がここぞとばかりに力作をバンバン出しているこの時期に、我らが日本のゲーム市場はどうだったのでしょう?


 2000年から2004年あたりの時期、日本のゲーム市場は非常にお寒い状況でした。SFC時代からPS時代にかけて隆盛を誇った対戦格闘ゲームの人気は大分落ち着いたものになり、パラッパに端を発する音ゲーブームもすっかり去り、SCEの巧みなCM展開で人気を博したどこでもいっしょやIQなどの当時さんざんもてはやされたライトユーザー向けゲームもすっかり人気が無くなり、結局は、ドラクエポケモン、FFと任天堂の定番ブランドタイトルが売れるというもの凄い保守的な市場が形成されつつあったのです。三国無双シリーズとかウイイレシリーズが毎年のようにリリースされ、毎年のようにミリオンヒットを飛ばすなど、一部盛り上がったタイトルもありましたが、業界全体は縮小、良くて現状維持が精一杯の状況でした。特に新規タイトルの売れなさぶりは尋常なことではなく、10万本売れれば大健闘など、騒がれたものでした。この辺の時期はオイラがもっとも暇を持て余して業界ウォッチにうつつを抜かしていた時期でもあるので、語ろうと思えばなんぼでも語れます。初代XBOXが日本市場で壮絶な爆死を記録したのもこの時期で、もうちょっとMSが巧みな戦略で日本市場に基盤築いていたら、今とは色んな部分で状況は変わってたかもしんないなーとか思います。


 そんな悲惨な状況のなかで、最も迷走、もしくは絶え間なく試行錯誤していた会社は、他ならぬ任天堂だったと僕は考えます。GC時代の任天堂の評価ってのは、人によって、様々に分かれると思います、僕自身全面的に駄目な時期だとはまるで思わないし、全面的に良かった時期だとも思ってはいません。でも一つだけ確かのは、この時期の任天堂が、今までの任天堂とでは考えられないくらい、いろんな方向、いろんな形に良くも悪くも動き回っていたということなのです。この頃の任天堂の歩みを振り返ってみましょう。

重厚長大軽薄短小の狭間で

 一世代前のN64の頃の任天堂は、PSやSSの勢いにおされ、人気タイトルが続々と移籍し、シェア的にズタボロの状況にあっても、送り出してくるゲームタイトルの出来は全くブレていませんでした。これだけヤバい状況に追い込まれてなお平気で人気タイトルの延期を決め込む任天堂、ひいては宮本茂の胆力たるや!やっぱりこの人相当常軌を逸してると思うよ俺。だからN64の時期の任天堂は、シェアの面では敗北するのはある種の必然だったように思うけど、その敗北を前にしても全く迷ってはいなかったと僕は考える。まあ、64DDなんかは延期の果てに発売して、グダグダになっちゃったけどね。まあ64DDについてはすっかり更新を忘れつつある任天堂失敗列伝の四回目あたりで詳細に述べるのでまた別の機会にということで。サテラビューの資料を結構集めたんだけど、今更やりようがないからちょっと困ってんだよね。。


 話を戻そう、N64の頃の迷いのなさ、ソフトを開発する姿勢のブレなさに比較してみると、やっぱりGC時代は、色んな意味で任天堂はブレていたし、ダイナミックに七転八倒してた時期だと思う。そのブレの根源は、GCを発表した際に当時の山内社長のこんな発言から始まっている。

 新機軸を打ち出さなければ、ゲームそのものがマンネリ化して飽きられる。また、“重厚長大”型のソフトは、内容が複雑で、制作に時間も人手も費用もかかる。数十億円をつぎ込み、百万本を販売するヒット作となっても、なお赤字という場合もある。それではビジネスとして成り立たない。“軽薄短小”でも完成度の高い面白いゲームはできる

(読売新聞1999年11月3日付) http://homepage2.nifty.com/kamitoba/goroku/yamauchi.html


 今から丁度10年前の発言なんですが、なんかまったく今の言葉として捉えても違和感ないですね。やっぱこの人すごいわ…。この言葉は、丁度N64からGCへと以降する時期に発せられたのですが、この発言の「“重厚長大”型のソフト」とは具体的にどの辺のソフトを指しているのでしょう。まあ当時ならファイナルファンタジーを始めとする大作RPGタイトルあたりが妥当なんだと思います。でもね、確かにファイナルファンタジー重厚長大なタイトルなんだけど、それを言うならゼルダの伝説時のオカリナとかスーパーマリオ64みたいなN64を代表するタイトルだって充分重厚長大なソフトなんだよ。つまりこの言葉って、業界全体への警鐘なんだけど、なによりも社内の開発者へむけた社長自らの痛烈な批判であり、方向転換しますよっていう鶴の一声なんだと思うのです。この発言のちょっと前に宮本茂に直接「まだゲームを作ってるのか」なんて発言もされてたらしいし。


 この山内社長の重厚長大から軽薄短小へという宣言がなされ、GCが発売されてからしばらく、任天堂は元々持っていた重厚長大な、ガッツリ遊んでなんぼのゲームを、半ば強引に軽薄短小な、サクッと軽く遊べるゲームにしようとして、かなり無茶な試行錯誤を重ねていたように僕には思えます。もっとも、2001年の時点で軽薄短小なゲームへのほぼ完璧な回答、「どうぶつの森」を発売し、ユーザーの間に静かに浸透していったのもまたこの時期だったりするから、この会社は本当に、一筋縄ではいかないのですが…。


 そんな中でも、「スーパーマリオサンシャイン」と、「ゼルダの伝説 風のタクト」の二作品は、この時期の任天堂の歪みみたいなものが凝縮されたタイトルではないかと思っています。この二つのタイトルは、宮本茂があまり関わらず、若手の社員へマリオとゼルダという二大看板を継がせるべく制作されたタイトルなのですが、ただでさえ、重厚長大から軽薄短小へと、大きな方針転換を図っている最中に、若手への継承作業まで同時に行ってしまったのは、ちょっと無茶し過ぎだったんじゃないかと当時の自分ですら思ったものでした。実際に完成したタイトルは決して悪いものではなかったし、100点満点中90点くらいつけてもいいような出来だったんだけど、なんせ前作にあたるスーパーマリオ64ゼルダの伝説時のオカリナムジュラの仮面はちょっと異色すぎるから除外)は100点満点中120点のソフトだったからねえ、、、っていう意味でちょっと残念なタイトルでした。なんでこうなったかと言えば、時代状況(3D初めての状況と3Dに慣れた状況の違い)とか、やっぱり宮本茂が関わらないととか色々考えられるんですが、最も大きな要因は、この二タイトルとも任天堂タイトルなのに延期を全くしなかったことではないかと僕は思っています。2001年から2002年にかけての任天堂ってなぜかスゴく納期にこだわっていて、N64の頃の半年延期ですが何か?な姿勢がどこいっちゃったのかってくらい期日厳守で、ソフトを発売していたんだけど、やっぱりその弊害ってのは、これら二タイトルには如実にでていたように思えます。ちょっと任天堂ソフトらしからぬバグが多かったり、風のタクトに至ってはどうみてもダンジョンがありそうな場所をサクッとスルーしてみたりと、ちょっと今までの任天堂では考えられないことが起きていたのです。任天堂の社長が、山内社長から、岩田社長へ変わったのもこの時期で、岩田社長なりに先代から託された言葉を実現すべく試行錯誤を重ねた時期だったということもあるのでしょう。


 今から考えれば、この時期にマリオやゼルダの制作を宮本茂から若手開発者へ移行させようとしたことは、大正解だったと思いますし、この時期にディレクターを任せられた小泉氏に青沼氏は今では、すっかり第一線級のクリエイターになっているのですが、3Dのゼルダやマリオまで、軽薄短小なゲームとして作るという試みはちょっと無茶が過ぎていたように僕には思えます。その辺の思考錯誤具合については、また別の機会(任天堂失敗列伝でそのうち)に触れるとして、とにかく2001年から2002年末あたりにかけての任天堂は、重厚長大から軽薄短小へという方向性はインタビューなどのメディア上の発言では示すものの、それを今ひとつタイトルそのもので示すことが出来ていないちょっと中途半端な時期でした。後々DSで大ブレイクを起こす「どうぶつの森」もまだまだ地味な存在だったのです。やっぱり任天堂は売上が伴ってなんぼの会社でしたからね。そんな暗中模索の状況の2002年を過ぎた次の年、2003年3月21日、一本のタイトルがその状況に変化を起こします。そのタイトルの名前は


 メイドインワリオ」です。 


 はい、というところで、肝心の、ゲームシーンを巡る二つの中心点の話にすらまだ至っていませんが、丁度折り返し地点くらいだし、あんまり長くなるのもアレなんで、後編のさらに後編(?)に続きます。だって終わらないんだものしょうがないじゃない、、、これでも大分端折った説明にしてるのよ…。ゲームキューブ時代っていっぱい言いたいことあんのな。あ、あとゲームキューブ時代はゲームボーイアドバンス時代でもあると思ってくだせえ。