このゴジラ……顔がいい……!『ゴジラ-1.0』を観て考えたこと

 世界が認めるキング・オブ・モンスターにして怪獣王ことゴジラ
 

 2014年にギャレス・エドワーズ監督によるハリウッド版の『ゴジラ』、2016年に庵野秀明監督によって制作され大きな反響を呼び国内で興行収入80億円超という大ヒットを記録した『シン・ゴジラ』、2019年にふたたびハリウッドで作られた『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』、続く2021年には『ゴジラVSコング』が公開されるなど、近年はコンスタントに新作が制作されており、1954年に公開された一作目から現在に至るまでその地位は揺らぐどころかより盤石になった感すらある。


 そんな希代の映画スター怪獣であるゴジラだが、実はかなり問題を抱えた存在でもある。


 最大の問題は動きが鈍重であるということだ。現代においてあんなに図体のデカい存在が日本に上陸し、街の中心部に到達するころには人の避難は完了してなきゃおかしいだろということになってしまう。だけど、せっかくゴジラを映画で観るだったら人がたっぷりいて逃げ惑う街で暴れまわってほしい。だけど、それをするにはゴジラの身体はデカすぎるし、のろ過ぎるのである。


 この問題については以前このブログで『シン・ゴジラ』公開時に文章を書いているので興味ある人は読んでみて欲しい。


hamatsu.hatenablog.com


 詳細は上の記事に書いたのだけど、この身体デカすぎ、動きのろ過ぎ問題を『シン・ゴジラ』はそんなに大きくも無いし、海から川を潜水移動して人が大量にいる状態で見事に上陸を果たしたいわゆる「蒲田くん」という発明によって突破している。改めて振り返っても「蒲田くん」がまだ「蒲田くん」とすら呼ばれていなかったタイミングであれを目撃した時の衝撃は忘れられないし、蒲田上陸からの一連の街を蹂躙していく様は『シン・ゴジラ』という映画の白眉と言っていいシーンになっているように思う。


 私が思うに、現代において『ゴジラ』の映画を撮るには、ゴジラというあまりに魅力的でありながら、あまりに基本的な部分で大きな問題を抱えた存在をどう扱うかという解決法がそれぞれの映画ごとに必要とされているのである。ゴジラを活かすためのなんのアイディアも持たずに映画を撮影したとしてもそれは、緊張感に欠ける、鈍重で退屈な映画にしかならないだろう。私にとって『ゴジラ』の映画を観るということは、それぞれの監督が導きだしたそれぞれの解決法を観るということもであったりする。


 というわけで話は『ゴジラ-1.0』である。この映画はゴジラの抱える諸問題について如何に対処したのか。


 ゴジラの動きが遅い問題に対しては、時代設定を戦後すぐにし、さらに怪獣の情報を政府が市民に対して隠蔽しているということで人で溢れる銀座への上陸を果たすことに成功している。この政府の隠蔽体質に対する怒りは脚本的に妙に力がこもっており、一時はオリンピック開会式に関わりつつも途中で離れた山崎監督なりの思いがこもってるんじゃないかとか邪推してしまったが、その分説得力も結構あるように感じた。全体的にこのゴジラ結構足速くないか?っていう疑問が沸かなくもなかったのだけど、映画を観ている間は、人で溢れる街を蹂躙するゴジラをさほど違和感を抱かずに堪能することが出来た。


 そして私が本当に感心したというか、心底感動したのはもう一つの問題、図体デカすぎ問題に対する解決法である。


 『ゴジラ-1.0』のゴジラはサイズ感が初代ゴジラと同等程度のサイズということで、100mを超えたギャレス版の『ゴジラ』や『シン・ゴジラ』よりもずいぶん小さいサイズにしており、昨今のゴジラの中では、同じフレーム内に人間とゴジラの両方をかなりおさめやすいという利点があり、これがかなり効いていると思うのだが、それ以上に効いているのがもう一つの解決法である。


 ゴジラの図体がデカすぎるのであれば、沈めてしまえばいいのである。


 というわけで、ということでもないのだろうが、『ゴジラ-1.0』における対ゴジラの主戦場は海である。


 舞台が海であればデカいゴジラの身体の大半は海に沈む。移動速度遅い問題だって歩くよりは泳ぐ方が速い(怪獣の泳ぐ速度とか実際は良く知らないがまあ速そうではある)ので機動力を活かした攻防戦が出来る。私が『ゴジラ-1.0』で相当良くできている銀座蹂躙シーン以上に興奮したのは、機雷を除去するための木造船にて絶望的な戦いをゴジラに挑む、多くの人が映画『ジョーズ』を彷彿するであろう2戦目である。


 なにせ身体の大半が海に沈むということはこちらから主に見えているのはゴジラの顔になるわけで、本作はゴジラ映画史上屈指と言っていいほどに、ゴジラの顔のアップが多い。さらに本作では一作目の時点で出来ることはわかっていたのに昨今ではさほどフィーチャーされなくなりつつあったゴジラの噛みつき攻撃を様々な局面で多用してくる。とにかくゴジラの「顔」を至るところでいい感じにそれと対峙する人と同じ画角に収めてくれるという、いままで見れそうで見れなかった画がバンバンでてくることに私は一番興奮を覚えた。特にゴジラのデカい顔が木っ端のような木造船に迫るシーンは、ハリウッド映画と比べても全く遜色のないCGの出来栄えと共に劇場で本当に感動してしまった。この映画は、とにかくゴジラの「顔」を堪能出来る映画になっているのである。おそらくは西武ゆうえんちゴジラ・ザ・ライドを制作した経験などが活きているのだと思うのだが、ゴジラの顔が人間に直接的に襲いかかることが如何に恐ろしく魅力的かということを再発見させてくれた点にこの映画の最大の魅力があるのではないかと思う。

●結局は地道な経験と実績の積み重ね
 なぜ『ゴジラ-1.0』は、これを監督した山崎貴監督は、画期的と言っていいほどに見事なゴジラとの海戦シーンや銀座襲撃シーンをものに出来たのだろう。


 それは非常に単純な話で、この映画に至るまでに様々な経験や実績を蓄積してきたからだろう。


 『アルキメデスの大戦』や『海賊と呼ばれた男』での海上シーン、『永遠のゼロ』での戦闘機描写、『ALWAYS 三丁目の夕日』での昭和初期の街並み描写など、山崎貴監督が所属するCG制作プロダクション、「白組」と共にヒット作を手掛け続け、経験と実績を積み重ね続けたからこそ、これまでの経験の集大成としての、この『ゴジラ-1.0』があるのは間違いないのではないかと思う。


 『ゴジラ』の映画を撮るということは並大抵のことではない。かかるプレッシャーは常人には計り知れないものがあるだろう。しかし、その重責をこれまで共に歩んできた仲間と共に、これまでの実績や経験を最大限活用する形でこの途方もなく高いハードルを見事に乗り越えたという事実に私は本編と同じくらいの感銘を受ける。私自身、山崎貴監督の映画の良い観客とは言えない部分もあるのだけれども、白組を世界最高峰のCG制作チームにまで導いた実績はいくら賞賛してもし足りないだろう。結局のところ素晴らしい成果を達成する高い技術力とは、地道な実績と経験の積み重ねの先にしかないのである。


 私が『ゴジラ-1.0』という映画を観て気付かされたのは、そんな口にするのが野暮なほどに当たり前だが、実行するのは本当に難しいことを、愚直に継続し続けることで、やがてここまでの達成をものに出来てしまうのかという。泥臭くも感動的な事実である。


 一つだけこの映画に注文をつけるならば、本作の最終戦はそんな今まで地道に積み上げてきたけど、周囲からは馬鹿にされてきたりもした努力の集大成としての最終戦にすべきだったんじゃないかってことなんだけど…まあそれやっちゃうとちょっと色々問題ありそうだししょうがないかなとも思います。とても面白い映画でした。