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レースゲームの縦と横〜マリオカートとデス・レース論〜

映画 任天堂 ゲーム

 レースというものには基本的に縦と横の二つの関係性がある。「縦の関係性」っていうのは、競い合う二者の間に、差が生じている状態、一方が前に、一方が後ろにいる状態のことである。そして、「横の関係性」は、二者が横並びでいる状態のことである。


 「縦の関係性」は、差が開く、もしくは差が縮まる関係なわけで、互いの実力に違いがある場合に生じ易い、それに対して、「横の関係性」というのは、両者の差が開かないという関係であり、実力が拮抗している場合に生じることが多い。


 マリオカートというゲームは、互いの実力に開きがある場合に生じる、「縦の関係性」に革命を起こしたゲームである。マリオカート以前のレースゲームでは、最終ラップで、最後尾の車が最も速く走ることができるなど、車の「速度」に変更を加えることで、縦の関係を操作していたのだが、マリオカートというゲームは、前方を走る車を直接攻撃し、一時的に走行不能の状態に陥らせることによって、後方にいる状態から一気に逆転が可能になるという、新たなる「縦の関係性」を作りだした。レースゲームを単なる速度の競い合いから、前後の攻防戦の生じるバトルゲームへと変貌させたのだ。


 映画「デス・レース」を見て本当に感動してしまったのは、このマリオカートの起こした革命をこれ以上ないほど美しい形で映画化しているからだ。マリオカート的なアイテムシステムを映画に直接取り入れることで、このゲームはかつて無いほど豊かに、レースにおける縦横の関係を描き出している。


 
 こっからちょっとネタバレ入るからまだ見てない人は注意してね。

 

 まず、この映画では冒頭のを除けば、三回のレースが開かれる。まず、第一回目のレースは、参加メンバーも多いために縦の関係と横の関係、そのどちらも生じ易くなっている、そこで、まず一週目は武器を使用不可能にすることで、普通にぶつけ合い競い合いながらのある程度普通のレースにしつつ、二週目から、問題のアイテムシステムがレースに導入されるようにする。そこから一気に縦の関係性に変化が生じることになる。実力のあるものは「盾」となる防御系の武器を、実力的に劣っても「剣」になる攻撃系の武器を使用可能にすることで、前方を走る敵を撃破することができるようになる。まずは、アイテムの導入によってどのようなことが起きるのか?ということを見る人に楽しみながら学んでもらうようになっているのである。


 そして、第二回目のレースでは、既に複数の脱落者(死者)が発生しているため、次第にレーサー間の実力差が拮抗したものになってくる。つまり横の関係性が増えてくるのである。アイテムシステムというものは、基本的に縦の関係性に意味をもってくるシステムであるため、横の関係性が増えてくると、その機能を失ってしまう。そこで、レースを主宰する側が導入してくるのが、「ボス敵」の存在である。戦艦(ドレッドノート)の異名を持つモンスターマシンをレースに導入し、レーサー達に無差別に攻撃を仕向けることで、強制的にレーサー間の均衡状態を破ってしまおうというわけである。


 この戦艦の暴れぶりがまた容赦が無く、見てて爽快なほどなんだけど、それに対して主人公側は他のレーサーと協力することで反撃しようとする。その際の縦から横、横から縦へと激しく変化し、見事に戦艦を撃破する時の、まさに縦横無尽と呼ぶべき関係性の美しさたるや!映画を見ていて至福を感じるのはこういうときである(DVDなんだけど)。


 しかし、この映画はこれでは終わらないのである。まだあと一回、最終レースが残されているのだ。生き残ったレーサーはたったの二人、実力も非常に均衡した状態にあるため、基本的には横の関係性が支配するレースにならざるを得ない、これに対してどのような答えをこの映画は提示するのか?


 ここまで、車の縦の関係性に拘った以上、この映画が取る選択は一つしかない。レースそのものの破壊である。そうすることで、追う側、追われる側という「縦の関係性」を強制的に作るしかないのである。主催者側から常に強いられる形で、「縦の関係性」を描いてきたこの映画は、最後の最後で、主人公側が主導権を握る形で「縦の関係性」を主催者側に強いることに成功する。理想的な展開だと思う。


 この「デス・レース」という映画は、何も考えないで楽しめるB級映画と言われることが多い。そのことが特に、悪いことだとは思わない。しかし、この映画を撮ったポール・アンダーソンという監督は、観客が頭を使わないで見れる映画を撮るために、頭を使って使って使い倒していると僕は思う。映画版「バイオハザード」や、「エイリアンVSプレデター」という映画を見たときも感心しながら見ていたけれども、今回の「デス・レース」は楽しみながらも半ば呆れ、最終的に感動してしまったのは、この監督が本当に創意工夫を凝らしてB級と呼ばれるな映画を作っているからだ。別のジャンルの娯楽のエッセンスというものを実に巧みに抽出し、映画に生かしているからだ。その冷徹なまでにクレバーな姿勢こそが、B級映画魂を燃え上がらせるために必要な要素なのではないかと僕は思う。