昨日に続いて今更な話をしよう。
オタクという言葉で何かを指し示すことはもう無理なんだと思う。
最近よくそう思う。
けっこう前に嫌オタク流という本が出た。
その本ではオタクの様々な特徴が指摘され、嘲笑されたり呆れられたりしている。
それらの指摘の一つ一つは確かに自分に当てはまったり、知り合いに当てはまったりするような特徴ではあった。
でもそれらの特徴をオタクの特徴として語っていくのにはどうも違和感があって、
それらの特徴全てを持ち合わせている、完璧なオタクはどうしても
世の中にいるとは思えなかったのだ。
全てが完璧とまで言わなくても、それぞれの特徴を複数組み合わせようとすると、
どうもリアリティのある人間像が、結べなくなってしまうのだ。
サルの顔とトラの手足と、タヌキの身体とヘビの尻尾を持つぬえっていう化け物を思い出した。
ぬえの身体を構成する、サル、トラ、タヌキ、ヘビは現実に存在する生き物だが、
ぬえは現実には存在しない生き物である。
オタクっていう言葉はあまりに意味が拡散しすぎて、「オタクとは〜である」っていう定義が
もう不可能になってしまったんだろう。無理に語ると、ぬえみたいな化け物を語ることに
しかならないんだろう。
やっぱ岡田斗司夫がオタクは死んだと言っていたのはやっぱ正しかったなと思う。
非モテという言葉が浮上してきた背景にはオタクという言葉の死があるんじゃないだろうか。
非モテってのは読んで字の如く、モテない人ってわけで、
これ以上なくわかり易い定義の筈なんだけど、はてなの非モテの項なんかを見るとすごい。
なんでこんなに解説文が長くなるんだろう?
このマップなんてもう笑うしかないんだろうし、
ネタとして書いてるんだろうけど、その裏に切実なものがベッタリ張り付いてる気がして、
笑うだけでは済まない凄みを感じてしまう。
おそらくそう遠くない内に(ってかもうなってるか?)非モテという言葉では
何も語れない日がくるだろう。オタクという言葉の意味が拡散したように、
非モテという言葉も順調に意味が拡散している。
特にはてなとかブログで非モテを語ろうとすると、はてブの数とか意識しちゃって、
エントリの内容が、ちょっと強めの煽り意見とか、ちょっと過剰に卑屈になってみたりして、
地に足をつけた落ち着いた意見みたいなのが流通しにくい。
んで、そんなはてなというステージで目撃される、非モテ役者達から、
一般的な非モテ像みたいなものをイメージし、それに対する自分の意見をはてブコメントやら
ブログにアップして、それに更に…みたいなことを繰り返してもうすでに、
非モテって言葉から普通にモテていない人が連想できなくっていないかな?
後はもう、ただただ魅力が無いとか、価値が無いとか
本当に身も蓋も無いような言葉しか残されていないような気がする。
でも俺の中でモテない人ってのは普通の人のことだ。一般人てことだ。
非モテを極端に極端に考えすぎるよりは、
ありふれた普通のこととして考えていこうと思う。