「出来ないこと」のデザイン

もう結構前の話になるのだけれど、「泣けるギャルゲー」というのがちょっとしたムーブメントになった時期があった。


なんでも、それらのゲームはゲーム的な要素、所謂ゲーム性がどんどん希薄になり、ADVゲームなのにも関わらず選択肢がほとんど無くなり、ただただテキストを読まされるだけにもなるのだとか。


普通、このような最早ゲームとは呼べないようなタイトルには、支持者がいる一方で激しい拒絶反応を起こすユーザーがいたりもする。ゲームの歴史では何度も繰り返された景色だ。


しかし、「泣けるギャルゲー」ムーブメントの際にはそのような種類の拒絶反応を示すユーザーは思ったより少なかった。もっとも、ギャルゲーという時点で拒絶反応起こす人が大半で拒否以前の問題だったのかもしれないけど。


なぜ少なからず様々なゲームをプレイしてきた筈のオタクと呼ばれるユーザーがここまでゲーム性を放棄したゲームを一時的にとはいえ熱烈に支持したのだろう?


僕はこう考える。「泣けるギャルゲー」はゲーム性を放棄したゲームならざるモノなのではなく、ゲーム性を放棄することで逆によりゲーム的に成り得た、純ゲームなのではないかと。


ゲームってのは基本的に「何かが出来る」メディアだ。翔んだり跳ねたり、モンスターと戦ったり、恋愛したり、失敗したりもするけれど、ゲームをプレイすればプレーヤーは「何かが出来る」。


そこを逆手に取って、「何かが出来る」メディアだからこそ、「何も出来ないこと」の無力感を際立たせることが出来るのもまたゲームというメディアの特性なのだという、非常に全うなゲームデザイン的な観点から生まれたのが「泣けるギャルゲー」なのではないだろうか。


ゲーム的な要素を極限まで省くことで、逆に濃密なゲーム的体験を味わえる、だから一部のオタクは熱烈にこれらのゲームをゲームとして支持したのではないかと今更ながら思うのだ。




まあ、ギャルゲーほとんどやってないんですけどね。