ゼロ年代が克服したもの


 ゼロ年代が克服したものは、「退屈」だと思う。
90年代の重要なキーワードは「退屈」であり、「倦怠」だった。岡崎京子だの松本大洋だの、フィッシュマンズだのミッシェルガンエレファントだのスーパーカーだのっていう90年代を代表する表現者達は、それらのキーワードと向き合って、優れた作品を残してきた。


 それからずいぶん時間がたってオイラはすっかり退屈を感じない人間になった。ネットで2ちゃんねるやブログを読んだり、自分でも何かを発言してみたり、ニコニコ動画youtubeで、様々な種類の動画をみたり、ネットを通じて知った本や映画や音楽を見たり聴いたり、TVだってスカパーだのCSだの色んなものが見れるようになった。携帯電話で、知り合いと他愛のない言葉をメールで交わしたり、移動中もワンセグでTVを見たりしてる。


 ゼロ年代は90年代には有り余っていた、退屈を潰すための仕組みが大量に登場し、発達した時代として、後の世に語られるのではないだろうか?我々は見事に退屈を克服したのだ。


 こういうことを言うと、退屈を無くした代わりに私達は何かを失ったのでは…?とか考えてしまいがちだけど、俺は基本的には退屈を潰せるようになったことを肯定的に捉えたいと思っている。2ちゃんねるだってニコニコ動画をずっと見てると時間を無駄にしたような気になったりするけれど、退屈を持て余すよりはずっといい。あの頃感じていた退屈は出口がまるで無い檻に閉じ込められたような閉塞感とセットだった。


 でも、そう考えると90年代という時代は、後からノスタルジー的に振り返って懐かしがられることも無い時代なのだろうか?90年代ってまだまだインターネットも黎明期で、携帯だって後半になってようやく普及したけど、90年代前半なんてほとんどの人が持ってなかったんだよなあ。もう想像することも難しくなってるよ。


 退屈を無くして、何時でもなんかしらの興味を引くものに囲まれるようになって、自分達は豊かになったんだろうか?豊かって言ってしまうのはなんだか抵抗があるんだけど、以前より、自分達の生活は確実に楽しくなったとは思うんだよな。情報が増えたことで、情報に溺れてしまうっていうかつては無かった落とし穴も発生したけど、俺は前より色んなことに興味を持ったり、憤ったり、悲しんだり、楽しんだりしてると思う。


やっぱり俺はネットだの携帯だの各種ネットサービスだのを得ることで、より豊かになったと言っていいんじゃないか?


人によっては、2ちゃんやらニコ動を見まくることで若者の心が返って荒廃してるみたいなふうに考えたりもするんだろうけど、俺はあくまで肯定的に捉えていこうと思う。新しい仕組みなんだから新しい問題が発生するのは当然だし、その中には悲惨な事件も含まれたりもするんだろうけど、それでも俺は俺の退屈を潰してくれた仕組み達に感謝しようと思う。


だってそれは俺をあの檻から出してくれたんだから。出た先がまた檻だとしても、それはそれで構わない。


文化系トークラジオlifeの「経済成長」の回をポッドキャストで聴いて、今更ながらなことを振り返ってみました。