定義することで停止するのは思考でなく感覚なのではないか
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081102/1225594386
いい加減、aureliano氏のブログに言及するのは止めようかなとか思うんだけれども、自分なりに、触発される部分があるのも確かなので、言及させて頂こう。こういう部分ではやはり彼には感謝してるんだよ。いやマジでマジで。
彼は、やたらめったらに定義を求める人を思考停止してる人としているが、自分の考えは、ちょっと違う。思考には、きっちり定義をすることで、駆動する思考と、明確に定義し辛い問題と向き合うことで駆動する思考の2種類があると思うのだ。
たとえば、レースで勝ちたい車を作りたかったら、厳密な速度や、重量などの定義に従って、車を設計し、試運転をしたときも正確に時間を計測し、そこで時間の定義に沿って出た結果を謙虚に受け止め、さらなる性能向上を図らなければ、勝てる車は作れない。勝つための思考は導きだせない。
なんか速い感じしない?とか、ちょっと重くね?なんて実際の数字を無視して、適当な感覚でものを言うエンジニアでは、すぐさまお払い箱だろう。このような世界では、生半可な自分の感覚などはとっとと切り捨てて、目の前に冷徹に提示される「厳密な定義によって導き出される事実」と向き合うことが求められるのだ。
つまり、定義を求めている人というのは、思考を停止したいのではなく、思考を駆動ために必要な燃料を求めているのではないかと俺は思うのだ。そうしないとレースは始まらないのだ。
逆に、「スピード感」を感じることが出来る、楽しい車を作りましょうってことになったら、話は180度変わる。「スピードが出る」=「スピード感がある」ということではないからだ。この場合に必要なのは、ごくごくありふれたスピードを感じる「感覚」なのだ。大量生産する製品なのだから、普通の感覚であればあるほど良い。そのような感覚を元に思考を進めなければならない。
自分のブログらしく、ゲームの、特にレースゲームの話に絡めて話すと、スピード感というのは、ただ、直線を走ってる時より、カーブを曲がっている時の方が、感じやすい。
カーブを曲がってるときというのは、自分を中心に重心や、進行方向や、周りの景色が、めまぐるしく変化するため、瞬間的に起こっている情報量の変化が、直線に比べてはるかに多く、結果として、「スピード感」を得易いのだ。
だから、マリオカートの目玉の操作である、「ドリフト」をしている時は、基本的に減速をしないし、ドリフト中に特定の操作をすることで、ドリフトダッシュという加速すらできるようになっているのだ。
だが、これは、実際の物理法則には明らかに背いている。マリオカートというゲームは、現実世界の物理の定義よりも、人間が身体的に感じ易い「感覚」に寄り添う形で思考され、設計されたゲームなのだ。
このような物理の定義に背くことで面白さを生み出すのが、レースゲームの常套手段だったのだが、その流れに真っ向から背くような形で、登場したのが、「グランツーリスモ」というゲームである。現在ではレースゲームの王道中の王道のようなタイトルになっているが、このゲームが提示していたのは、従来のレースゲームへの究極のアンチテーゼなのだ。
しかし、そんなグランツーリスモというゲームも完全なるリアルなのかと言えばそんなことは無く、グランツーリスモはグランツーリスモなりの「リアル感」というものをユーザーの感覚に寄り添う形で演出しているのだという話をしてるとややこしくなる一方なので、この話はまた別の機会に。
とまあこのように思考の仕方にも色々な種類があるよというお話でした。
あんまりまとまってないけど眠いので寝ます。おやすみなさい。