その足跡が物語を為す時

 ドラクエのストーリーについて語るなら、どんなキャラクターが登場しただとか、堀井雄二の練り込まれたテキストがどんなだったかだとかって事以上に、プレイヤーのゲーム中でのふるまいを考慮しなくてはならないと思っている。


 プレイヤーがフィールドをどう歩き、何時はがねのつるぎを買い、何時ホイミを覚えたのか、そのふるまいこそが、ドラクエのストーリーを形作るのだと思う。


 そんなことを考えながらリメイクのドラクエ6をやっている。


 そうすることで思うのは、ゲームにおいて、それが見えるということと、それに到達できるということは違うという事だ。ドラクエ1で竜王の城が最初から見えていたとしても、そこへ直ちに行けるわけではない。その「見える」と「行ける」の間にある齟齬こそがドラクエにおける物語の推進力になっている。ドラクエ2の孤島に浮かぶ港町や、ドラクエ3のナジミの塔を見てもそれは明らかだ。


 ドラクエ6はその「見える」と「行ける」の関係を逆転することで物語が始動する。主人公がそこに辿り着いたにも関わらず、村人にはそれが見えない。一方では極めてオーソドックスな「見える」と「行ける」の物語が進行しながら、もう一方では、「行けるのに」、相手から自分が「見えてない」というゲームのお約束が完全に壊れた世界を存在させる。かなり冒険的な試みをしていることが冒頭からわかるのではないか。


 実は、ドラクエ6を僕は今回初めてプレイするので、今後ストーリーがどうなるかはまるでわからないのだけれど、ドラクエシリーズをプレイする度に思うのは、堀井雄二という人がどれほど高い意識でゲームにおけるストーリーテーリングのあり方を考えていたのかということだ。シリーズを重ねるごとに、どれほど高い批評意識をもって、ゲームと向き合ってきたのかということだ。


 このような志の高いシリーズを遊び続けられることに感謝しつつ、自分なりの足跡を綴ろうと思う。