「土地勘」を生成するメディア

 映画を見て、その舞台となっている土地の地理を把握するのは難しい。映画はカメラワークやカットの編集などの「部分」の集合によって出来ているからだ。おそらく「ローマの休日」を何度見ても、ローマの街をスラスラ歩けるようにはならないのではないか。

 
 レッド・デッド・リデンプションというゲームには、非常に広大なフィールドが存在し、西部劇という時代設定を選択したために、そのフィールドの大半が、パッと見の印象が似通ったアメリカ西部の荒野となっている。


 そのため、地図をよく見ながら移動しないと、自分などはたちどころに迷子になって、フィールドを延々うろつきながらコヨーテやオオカミに追っかけられる羽目になったりする。


 しかし、なんども繰り返し繰り返しプレイし、いくつかの頼まれ事(ミッション)をこなしていく内に、変化が訪れる。その土地ごとのちょっとした違い、群生する植物や、生息する動物、そして同じようでも微妙に違う地面の質感などの情報から、それとはなしに、自分の居場所が把握出来るようになってくるのである。


 これは、このゲームを通して「土地勘」というものが自分の中に生成されたということなのではないだろうか。

 
 ここまで読んだ人は、そりゃただ単にお前がそのフィールドを「覚えた」だけだろと思うかもしれない。いやいや、このゲームのフィールドはそんなにすぐに覚えられるような広さではないのだよ。現在の20時間程度のプレイでは全然全貌は把握出来てないし、マップを見ながらじゃないと未だに頻繁に迷う。でもそのおぼろげな記憶がなんとなく結びついて一つの像を結びなんとなく目標ポイントに辿りつけたりする時も多々あるので、この感じはやはり自分の中に、「土地勘」が生まれたという表現が適切なんじゃないかと思う。


 自分の中に「土地勘」が生成された背景にはレッド・デッド・リデンプション制作チームによる繊細なデザインワークの存在が非常に大きくある。どこを歩いても似たような金太郎飴の如きフィールドでは、このような感覚を覚えることは難しかっただろう。
  

 ゲームはグラフィックが進化することで何か本質的な変化が起きたのか?という問いはこれまでになんども繰り返されて来た問いではあるが、レッド・デッド・リデンプションの広大過ぎるフィールドはその問いに対するこれ以上ない答えになっている。


 おそらく、今現在、僕の中で生成されている「土地勘」は、数年経っても完全には無くならないだろう。「土地勘」とはそのようにおぼろげでも根が強いものだ。だから数年後にレッド・デッド・リデンプションをプレイし、僕の胸にはどんな思いが去来するのか、それは「郷愁」と呼ばれるものなのではないか、僕はその日がぼんやりと楽しみなのである。