ゲームにおける一本道について考える

 一本道のゲームについて考える時、最も参照すべきなのはレースゲームだと思う。


 サーキット等で順位を競うタイプのレースゲームはいくつかの例外はあるものの基本的には一本道で構成されている。当たり前ですね。


 そして次に考えるべきなのは、レースゲームにおける自由とは何かについてである。


 決められた一本の道を走ることしか出来ないレースゲームにおける自由とは何か、それは時間に対する自由だ。


 レースゲームがただ決められた道を走るだけである以上、時間をどれだけ長くかけて走るかについては、大抵の人が自由に振る舞うことが出来る。ゆっくり確実に走って、飽きたら休憩してまた気が向いたら走りを続ければいいだけのことだからだ。では、逆に時間をどれだけ短縮できるかについてはどうだろう、如何に短い時間で決められたコースを走れるのか、これについてはプレイヤーの技量がシビアに問われることになる。ここに一般的なレースゲームの「ゲーム性」というものが発生することになる。

 
 レースゲームとは、より速く走ることを競うことで、時間に対して最も自由に振る舞える者を決定するゲームジャンルのことだ。僕はそのように考える。


 一本道のゲームに対置して挙げられるゲームは大抵の場合、寄り道要素が多いゲームであることが多い。


 ゲームにおける自由を考える時、選択肢を多く与えるというのは確かに一つの方向性としては正しい、しかし、ゲームにおける一本道が最も純化した姿としてレースゲームを考えてみた時、もう一つの自由のあり方、「時間配分の自由」というものが浮かび上がってくる。自由の尺度は一つでは無いのだ。