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宮崎駿の「現実」

 もう一回くらい見てから書こうかなと思ってたけど、来週シネマハスラーでもやるみたいだから、風立ちぬについて思うところを書いておく。


 岡田斗司夫が主人公の堀越二郎が好きなもの、美しいと思うもの、要はかわいい女の子ばっか見てるってことを指摘してたけど、自分としては、堀越二郎が関心を抱かないものについてのぞんざいな描きっぷりが気になった。


 この映画の中では、自分が知る限り二回ほど、意味をなさないわめき声を発するキャラクターが登場する場面がある。一度目は幼少時代に子供を虐めている年長組らしい学生、二度目は新しい戦闘機の設計についてのプレゼンをする際にやいやいと口出しする軍隊のエラい人達。


 これってどういうことなのかと言えば、堀越二郎にとってある種の人間は、自分にとってなんの意味もなさないノイズしか発しない異物でしかないってことなんだと思う。ラピュタの悪役、ムスカは人がゴミのようなんてことを嬉しそうに言っていたけど、堀越二郎にとってはある種の人間がゴミ以下の存在であることは当たり前の前提でしかないのである。


 この映画は効果音を人の声で再現されているなどといった「音」の試みが取沙汰されているが、もっと様々な場面で「音」に気をつかっているのではないかと思う。


 冒頭の関東大震災のモブシーンが作画は賑やかなのに妙に、人の声が静かなのも気になった。もう少し確認しておかないと完全に自信は無いんだけれど、宮崎アニメの他のモブシーンと比べても静かめなんじゃないだろうか。これはなんでそうしてるのかと言えば、堀越二郎という人が関東大震災という大惨事にあっても、どこか心ここにあらずな人だってことを演出しているんだと考えれば合点がいく。


 ではなぜこのように「音」にこだわるのかと言えば、風立ちぬという映画は、単純な現実の再現を目指しているのではなく、堀越二郎という人物が感じ取った現実の再構成を目指しているからではないかと自分は考える。


 だから堀越二郎にとって大切なものは執拗に克明に描かれるし、どうでもいい存在はこれ以上なくぞんざいに描かれる。そして軽井沢の別荘で映画を見てる人にもどうにもこうにも目に入らざるを得ない山盛りのクレソンをバクバク食べるドイツ人は、どれほど関心がなくとも堀越二郎の現実に割り込んでくる「戦争」の影を象徴しているんである。


 宮崎駿という人がこれまでファンタジーを自分の映画の題材として選んで来たのは自分の好きなものを好きなように描けるからだと思うのだが、現実を描くとなったら、自分が好きじゃないものも描かざるを得ない、それがどういうことかって言えば、如何に自分がある種の現実や人物を軽蔑して、ゴミ以下のような存在として見てるかってことをさらけ出すことでもあって、こりゃ確かに現実描くのを躊躇するわなあなんてなことを思ってしまった。


 だけれども、そういったある種の現実への冷めた視点まで射程に入れたことで、より主人公が惜しみなく愛情を注ぐ存在、まあ要はメカと美少女への純粋な思いの描き方に明らかに凄みが増している。宮崎駿の覚悟が伝わってくる、と言っても良いかもしれない。


 まだ一回見ただけなんでとりあえずこの辺にしておこう。もう一回劇場で観てまたなんか書くかも。自分の間違いに気付いて訂正したりするかも。