スプラトゥーンとは何だったのか

スプラトゥーン 2016カレンダー 壁掛け

スプラトゥーン 2016カレンダー 壁掛け

※大分荒っぽく仕上げた文章なので、ちょこちょこ追記してます。

スプラトゥーンが発売されて早いもので半年が経とうとしている。絶え間なく更新され続け、ブキ、ギア、ステージの数も増え、ゲームモードも追加され、何度かの大規模なアップデートも経て、ようやくスプラトゥーンは完成形に至ったと見て良いだろう。スプラトゥーンの総括的なレビューを書くための機は熟したと言って良いだろう。時は来た。でも今更ながらに自分が昔、それも発売される前っていうか去年のE3で発表された直後に書いた記事を読み直したら我ながら良い事書いてるのね。ほぼ当たってんじゃんこの記事。もう書く事ないんじゃないのって程に。


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でもまあいいや。やっぱ発売前だからおっかなびっくりで書いてたとこあるし、探り探りで書いてたとこもある。何より驚いたのは、ある程度面白いことは発売直後から予想がついていたにも関わらず、そのハードルを見事に飛び越えてしまう面白さをスプラトゥーンが持っていたということだ。おかげで今年は仕事が忙しくて碌にゲームが出来なかったにも関わらずスプラトゥーンのプレイ時間だけは300時間を余裕で超える始末である。まだまだ全然飽きていないので、当分プレイは続けるだろう。


ここまでスプラトゥーンにハマったのはゲーム自体が良く出来ているという事以上に自分がいままでゲームをやり続けながら考えてきたことと大きくリンクする部分が多かったからである。今迄考えて来たゲームに対する問題意識に向き合い、ある部分は解決し、更に先のステージへと誘うゲームだったからである。という訳でスプラトゥーンというゲームの総括的な記事を書き始めたい。まずはスプラトゥーンの大先輩とでも言うべきこのゲームに触れることから始めよう。

スーパーマリオ64が暴露してしまった3Dゲームにおけるカメラ問題

スーパーマリオ64(以下マリオ64)は間違いなくゲームの歴史に残る大傑作であると同時に、大問題作であるとも僕は考えている。マリオ64によって提起された問題、それは3Dに限らないあらゆるゲームにおける「カメラの存在」についてである。


このゲームでは冒頭でゲーム画面を撮影している「カメラマン」が己の存在をプレイヤーキャラクターであるマリオ、そしてゲームをプレイしている我々に申告するという非常にメタな演出が仕込まれている。


なぜこのような仕掛けが施されているのか。このゲームのディレクターを務めている宮本茂という人はあまりメタな仕掛けを好き好むタイプでは無い。にもかかわらず何故このような仕掛けがあるかと言えば、3Dゲームにとってカメラとは、「意識すべき」存在だからである。


3D空間で3人称視点のゲームが一般化した今となっては至って普通のことであるが、2Dのゲームが主流であった時代にゲーム中のカメラを操作する必要性などゲームをプレイする我々は全く考慮する必要が無かった。今になって思えば横スクロールの2Dゲームとは、ドット絵の暖かみとか言う以前にカメラとプレイヤーの操作が完全に一致していたとしても全く不自由、というよりもカメラを操作しているという意識すら感じさせないという非常に洗練された操作体系を備えた優れたゲームジャンルだったのだ。


そのようなカメラとキャラクターの蜜月時代の終わりを告げるところからマリオ64というゲームは始まる。そして、それはただただ右へ右へと移動し、あまりに明確な目標への「到達」を身上としたマリオというゲームの本質が揺らいだ時でもあった。


1996年6月21日、ニンテンドウ64とともに発売されたこのタイトルから、任天堂と3Dゲームの苦闘の歴史は幕を開けることになる。スプラトゥーンが発売される19年前の出来事である。


※11/29追記 そもそもマリオ64のカメラ問題の何が悪いのかってのがわからないって指摘あったので、補足。ゲームが3Dになって以降、プレイヤーの移動とカメラの操作は別系統で操作するってのが標準化しつつあるけど、それってゲームが確実に複雑化する要因で、ユーザーをゲームから遠ざける原因の1つになっていると思うのだけど、マリオ64はそのことにいきなり自覚的で、3Dゲームの黎明期としていはかなり先進的な仕組みにも着手してたんだが、完全な解決には至らず…っていうことなんですが、詳細は自分が前のブログで書いた『マリオ64』についての記事と、『マリオ3Dランド』についての記事をご参照ください。

hamatsu.hatenablog.com
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カメラ問題を解決したゲームジャンル

ゲームが3Dになることで、プレイヤーにはカメラを操作するという一種の「重荷」が加わることになった。この問題によって、ふるい落されたユーザーの数というのは少なくはない。特に日本国内においてその傾向は顕著だった。2Dの時は300万本超、場合によっては500万、600万という圧倒的なセールスを誇って来たマリオというゲームが3Dになると300万本の壁を超えることは未だに出来ていないという事実が、3Dによってもたらされたユーザーへのハードルの高さを物語っている。そして、3Dになることでマリオはその根本的なゲームの在り方に揺らぎが生じ、その軌道を修正するような形でシリーズを重ねることになるのだが、それはまた後ほど述べるとしよう。ここで語りたいのはゲームの3D化によってもたらされたカメラ問題に対して、完璧に近い解答を提示しているあるゲームジャンルのことだ。そのジャンルとは何か。


FPSである。


FPSファーストパーソンシューティングというゲームジャンルは、プレイヤーの視点とカメラを一致させること、主観視点によってゲームを進行させることによって、3Dゲームにおけるカメラ問題にほぼ完璧に近い解答を提示したゲームジャンルである。※追記 はてブでツッコまれてたが、FPSマリオ64以後に現れたゲームジャンルだなんてことは当然だが思ってない。マリオ64の登場によって結果論的にFPSのジャンルとしての素性の良さが改めて明確化したのだと捉えていただければ良いかと。そして、離れた距離の的にも即時に着弾し、攻撃を加えることが出来る銃という武器を基本とすることによって、カメラ問題と同時に生じる、距離感の把握の困難さという問題に対してもかなり有効な解答を提示することに成功した。


近年、海外のゲームシーンが活況を呈する一方で、日本は低迷しているみたいな意見を目にするのはそう珍しいことではないし、個人的にはそのことに対して言いたい事は山ほどあるし、実際自分のブログでも散々言って来たわけだが、根本的な原因を1つ挙げろと言われれば、ゲームの3D化によって国内と海外、特に欧米シーンで生じた明暗ということを挙げたい。日本のゲームシーンはマリオ64のカメラ問題に代表されるような大きな壁にぶつかり、海外のゲームシーンは3D空間との相性が非常に良いFPSというゲームジャンルを中心に据えることで大きく飛躍することが可能になったという訳である。


では日本のゲームシーンにとって3D化とはそこまで呪いに満ちた存在だったのだろうか。実はそうでも無いのである。むしろゲームの3D化は日本のゲーム業界にとっても非常に大きな恩恵をもたらした。次の項ではそのことについて語っていこう。


※追記 はい、カメラ問題についての解答と提示したタイトルとして時のオカリナがあるじゃないかという指摘を幾つかいただいてますね。その通りです。時のオカリナについて触れ出すとただでさえ長いこの文章がさらに倍になるので、割愛した次第であります。


※11/29追記2 幾つか指摘有るように文章の順序と時系列がグチャグチャでドンドンわかり辛い文章になってる…、サーセン…。FPS、というかシューター系ジャンルがカメラ問題をどう解決したのかが不十分なので補足。3Dになってプレイヤーの移動とカメラ操作が別系統になって複雑化したというのは前に説明しましたが、FPSはカメラと視点を一致させることに加えて「狙う」という行為を主軸に据えることで、カメラを操作すること自体がゲームの目的になっているんですね。だからそもそもFPSに限らずシューター系ジャンルはカメラ操作と相性が良いんです。


※11/29追記3 この辺でスプラトゥーンのカメラ操作について語っておくべきだったんですよね。これについて軽く触れておくと、スプラトゥーンはカメラ操作の一部をジャイロセンサーによる「手首」の動きで操作するようにしたので、右手の親指がカメラ操作からある程度解放されたんですよ。これってかなり大きなことで、ゲーム空間内のカメラ操作だけでなくインターフェース側のカメラ操作に大きな変更を加えたことはスプラトゥーンのカメラを語る際には必須の要素ですよね。ちゃんと最初から書けよって話ですよね。これについてはまた個別で記事を書きます。

日本における「ゲームの3D化」がもたらしたもの

日本においてゲームが3Dになり始めたのは何時頃だろうか?それは90年代前半から中頃にかけて起こった。SFC後期に発売された『スターフォックス』(93年)や『ワイルドトラックス』(94年)などポリゴンによって描画された3D空間のゲームが登場し始め、ゲームセンターでは『バーチャレーシング』(92年)から、デイトナUSA(93年)、リッジレーサー(93年)が登場した時期である。


それまでもSFCと同時に発売されたF-ZERO(90年)のような擬似的に3D空間を表現したゲームはあったものの、後にでたそれらのゲームは実際の3D空間がゲーム中にあった。そのインパクトは非常に大きく、特にゲームセンターの景色を明らかに変えつつあった、そんな3D黎明時代にあって、最もインパクトをユーザーに与えたタイトルと言えば、おそらくは『バーチャファイター』(93年)だろう。



格闘ゲームの金字塔【バーチャファイター】プレイ(アーケード版) 3D - YouTube


バーチャファイター』に代表される3D格闘ゲーム、『デイトナUSA』や『リッジレーサー』によって切り開かれて行くことになる3Dレースゲームは国内市場においても大ヒットし、市場は活況を呈する事になる。これらゲームジャンルはマリオ64がぶつかる「カメラ問題」とも無縁だった。基本的に一対一で戦う格闘ゲームはカメラを真横に配置し、対戦する二人をフレーム内に収まるようにカメラワークすれば問題は無かったし、レースゲームは、プレイヤーキャラクター(ここではプレイヤーが操作する車のこと)の進行方向は基本的に前なので、急な方向転換や複雑なアクションが生じず、実はFPSに並んでカメラ問題を解消したジャンルでもある。


そんな2つのゲームジャンルに対して3D化がもたらした恩恵とはなにか。それはキャラクターの「動き」ではないかと思う。


ゲーム描画方法が3Dになり、リアルタイムにキャラクターを描画し続けるようになることで、キャラクター、特にプレイヤーキャラクターの「動き」は大きく進化した。それによって格闘ゲームは60分の1フレーム単位での攻防戦が可能になり、レースゲームは同じ走りが2度と再現不可能な程に繊細なドライビングが可能になった。国内のゲーム業界にとって、3D化とは、より微細な身体表現を可能にしてくれるイノベーションだったのだと思う。それはそれで非常に受け手と送り手双方にとって幸福な時代であったことは間違い無いとも当時受け手の一人だったものとしてそう思う。当時はまだまだゲームの進化に対して非常に無邪気で居られた。だが、その幸福な時代は少なくとも自分にとっては、マリオ64の発売と共に終わることになる。

ゲームにおける「身体」と「空間」

ゲームにおける「身体」と「空間」について、もう少し述べておこう。どうにかしてスプラトゥーンを語るまでに至るためには必須の項目である。


以前もこのブログで述べたことであるが、日本のゲーム業界は「身体」を軸にしてゲームを発展してきた部分が多分にあると僕は考えている。先の項で述べたように、対戦格闘ゲームやレースゲームのような、微細な身体操作、身体表現を必要とするゲームジャンルは日本のゲーム業界の得意とする分野だろう。2015年の現在においても対戦格闘ゲームやレースゲームで欧米のゲーム会社に圧倒的な差を付けられたという印象は少なくとも僕にはない。まあ現在のGTとForzaの差とか細かいこと言い出すとキリがないけど、その事はザックリと置いておく。


それに対して海外の、特に欧米のゲーム業界は「空間」を軸にここ10数年程度は大きく発展してきたと思っている。それは、海外のゲーム業界がゲームにおける「身体」表現に対して稚拙な技術しか持ち合わせていないというよりは、視点は主観視点で、攻撃は主に銃によって行うという、FPSに最適な「身体」が圧倒的に汎用性の高い形で標準規格化されていたからではないかと思う。だから「空間」のデザイン、レベルデザインという言葉が欧米のゲーム業界では非常に一般的な形で用いられるようになったのである。


日本のゲーム業界は3D化の恩恵を90年代初頭から半ばにかけて最も大きく受け、海外のゲーム業界は90年代後半から大きく恩恵を受け、FPSというゲームジャンルが、特にコンシューマ市場において大きく発展することになる。なぜ日本の方が恩恵を受けるのが早かったのかと言えば、対戦格闘ゲームやレースゲームはFPSに比べると要求するマシンスペックがそこまで高くは無かったからである。そのためFPSといば、コンシューマ以上のスペックを出せるPCゲーム市場や、一部の突出した技術力を持った会社が特例的にコンシューマでヒットを飛ばすものの(ニンテンドウ64ゴールデンアイなどはその代表例だろう)、市場のメインとなるには数年の時間を要したからである。


その3D化の恩恵を受けるタイムラグの存在によって、日本のゲーム業界は衰退し、欧米のゲーム業界は発展し続けるという印象が一部に強く生まれてしまったことは不幸なことだったと自分は考えている。ある程度の成熟を迎えた後に落ち込むのはどこにだってある当たり前の現象である筈だ。しかし、日本のゲーム業界が海外でも売れるFPSを作れなかったのは何故かと考える人が居ることが理解できるし、海外のトレンドから外れてしまった日本の現状を嘆く人の存在を全く理解出来ない訳でもない。そして、同時に、FPSを中心に大きな発展を遂げ、成熟に向かう欧米のゲーム業界だって、成熟の後にくる衰退と無縁な訳でもない。いくらFPSが3Dゲームにとって非常優秀なジャンルであるからと言って、それはユーザーを永遠に楽しませてくれることを保証しない。


という訳で、次の項でFPSというジャンル自体の変質と、そこに日本的な「身体」に軸を置いたゲーム設計がどう関係してくるかについて説明していこう。『スプラトゥーン』登場まであと少し…?


※11/29追記 ゲームにおける「身体」と「空間」に関しては自分のブログで前に語ったことでもあるので、良かったらそちらも参照してみてください。この辺自分の独自見解が多分に入っててわかり辛いし、まだまだ説明不足ですね。要はゲームにおけるキャラクター論とレベルデザイン論を平行で語る事の重要性ってことなんですが、この辺のついてはもぐらゲームスさんのところに近日寄稿予定の『Downwell』レビューでもより詳しく書いて行きたいと思います。


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近代TPSの雛形をつくったバイオハザード

FPSというジャンルが市場の中核を為す人気ジャンルとなった以上、そこには様々な試みがなされ、他のゲームとの差を付けようとする動きが当然のように生まれる。同じ内容のソフトは2つ必要ないからだ。


そんな各社がそれぞれに切磋琢磨を繰り返すなか、2005年にある一本のタイトルが発売される。


バイオハザード4』である。


従来のバイオハザードシリーズから操作系を一新させ、プレイヤーの背後を映しながら置き換える形でカメラを配置し、銃による攻撃で状況を打開するTPSというジャンルになったこのタイトルは、ビハインドビューと呼ばれる、撃つ際に肩越しの視点にするカメラシステムを導入することで、後のTPS系タイトルに大きな影響を与えた。


ビハインドカメラのどこが画期的であったのかと言えば、簡単に言ってしまうと、FPSの臨場感と、TPSの「身体」感覚の良いとこどりを成し遂げたことに尽きる。


ここまでFPSというジャンルの良い所ばかりをとりあげてきたが、必ずしも完璧なゲームジャンルというわけでもない。その欠点の1つが、操作している上での身体感覚の乏しさである。では三人称視点のTPSにすればそれについては解決出来たとしても、次はTPSのカメラ問題やプレイヤーキャラクターとの距離感によってどうしてもFPS最大の魅力と言っても良いだろう射撃の臨場感が削がれてしまう。


ビハインドカメラはその両方の魅力を出来る限り削ぎ落とさない形で両立させることに成功した。以後のTPSにおいおてビハインドカメラが最早標準規格となりつつあることからもその影響力の強さがわかるだろう。というよりも現在ではあまりに標準化し過ぎていてバイオハザード4が如何に重要なタイトルであるかということが忘れられているようにも思うので、ここで明記しておきたい。ではバイオハザード4のビハインドカメラがどのタイトルから影響されたのかについても書きたいことがあるのだけれども、この辺は自分の憶測も混じるし、いい加減文章が長くなり過ぎているので、割愛しよう。マリオサンシャインとか最近やったら意外と近いものを感じるんだよねこれが。


話を戻そう。ビハインドカメラによってそれなりに距離感が会った筈のFPSと、TPSというゲームジャンルは大分接近し、後にバイオハザード4からの影響をハッキリと名言する形で生まれたタイトル『Gears of war』の登場によってより具体的な形となる。


Gears of war』はビハインドカメラに加えて非常に洗練された形でのカバーアクションを提示したタイトルでもある。近代TPSはこのタイトルの登場によってほぼ完成形に至ったとみていいだろう。「空間」に軸足をおいて発展してきたのがFPSであるなら、FPS的な空間表現や臨場感に、「身体」を加える形で発展したのがTPSというジャンルなのである。


マリオ64によって明らかにされた「カメラ問題」とそれに対する解答を提示するFPSというゲームジャンル。


FPSが本質的に持ち合わせる3D空間表現に「身体」を加える形で発達したTPSというゲームジャンル。


ここまできたらスプラトゥーンの登場まではあと一歩である。


と、行きたいところなんだけど、最後にもう1つだけ寄り道をしよう。では何故ここまでつらつら長い文章を読んで来た人ならいい加減わかってもらえそうな。FPSという非常に優れたゲームジャンルは何故日本においてあまり浸透していないマイナージャンルなのか。という問題についてである。というわけで次の項では、なぜFPSが日本であまり浸透しないのかということについての自分なりの考えを述べてみたい。

国内市場における洋ゲーの浸透

FPSは日本で売れてないとか言っていきなりひっくり返すが、実はここ数年で日本でも大分FPSは売れるようになっている。CoDシリーズは20万本以上のセールスを記録しているし、先日発売された『スターウォーズバトルフロント』も発売初週で10万本を超えるセールスを記録している。FPSではないけど、『GTA5』に至っては50万本を超えるセールスを国内だけで記録し、もはや日本国内だけでも充分ビッグタイトルと呼べる存在になっている。なんだかんだで洋ゲーは着実に日本のゲームユーザーに浸透しているのである。


※追記 ツッコミが入ったので補足、CoD BO2は国内60万本以上で、GTA5は110万本超の売上だそうで、最後の結果まで調べるの怠ってサーセン


なぜかと言えばそれは単純に最近の洋ゲーが非常に丁寧に、ある程度のゲームプレイをする腕前があればクリア出来るように作られているからだと思う。GTAシリーズ等はつねに自分が行くべき目標地点を示してくれている丁寧ぶりである。広大なMAP や圧倒的自由度でおなじみのこのシリーズだが、実は非常に盲導犬的と言って良いほどに、徹底してプレイヤーを誘導する仕組みが入っていることも大事なことなのだと思う。


というわけで、FPSももっと大規模なプロモーションを国内で打つなどすればもっと売れると思います。でもCEROZの関係とかで難しいんだろうねえ…という訳でこの項終わり…と行きたいところなのだけど、もう少しだけ考えておきたい。そして、ここでようやくスプラトゥーンについて語り始めることが出来る。お待たせしました。


海外のFPSやTPSが国内市場で売れる事がそう珍しいことでなくなった昨今の事情から見ても、『スプラトゥーン』の売上は突出して高い。おそらくは年内で国内だけで100万本は達成するだろう。ダウンロードを含めればもしかしたら既に達成しているのかもしれない。それはなぜか?


理由はいくらでも思いつく。大規模なプロモーション、親しみ易いキャラクター、直接的な暴力表現を避けることによる訴求ユーザー層の拡大などなど。だが、僕はその大きな理由を『スプラトゥーン』というゲームの持つ本来的な資質に求めたい。そして、その理由は3Dのマリオが2Dのマリオにセールス的にどうしても届かない理由と同じだと考えている。つまり『スプラトゥーン』とは3Dマリオがどうしても解決出来なかった問題を遂に解決した3Dのゲームなのである。

スプラトゥーンとは何だったのか

新規タイトルにして国内市場で100万本超の売上を記録しそうな『スプラトゥーン』であるが、結局のところ『スプラトゥーン』とはどこが素晴らしいタイトルだったのだろう。なぜ『スプラトゥーン』は最近浸透してきたとは言え、50万超えることすら相当難しいシューター系のジャンルで圧倒的な売上を記録しているのだろうか?その最大の理由を端的に説明するとこうなる。


『スプラトゥーン』とは、「身体」の内側に目標を内包することによってプレイヤーの一歩目の探査水準を2Dマリオに比肩し得るまでに低くすることに成功したゲームである。


これはどういうことか、いままでマリオ64のぶつかったカメラ問題や、FPS、TPSのジャンル特性について語ってきたが、それらジャンルにはどうしても解決しきれていない最後の問題がある。それは、『明確な目標の設定とその目標への明確なアクセス手段の提供』だ。


前の項で説明したように近年、洋ゲーが日本でも売れるようになったのは、ゲーム内容が非常にわかり易く、ゲーム内で目標を見失って迷うという状況に陥ることが非常に少なくなったからである。非常に真っ当な形で進化し、その結果ユーザーに徐々にではあるが浸透しているのが昨今の洋ゲーである。では問題はほぼ解決出来ているかと言われれば、問題はそう簡単ではない。最初の画面内に目標を設定し、最初のワンボタンで目標に到達でき、その目標到達行動の果てに、最終的な目標地点にも到達が可能になる、そこまでハードルが下げられた目標設定とそこへの到達手段の提供、残念ながらそこまでには至ってはいない。


自分で書いててそんな無茶な状況設定あるかとは思う。しかし、考えてみて欲しい。2Dのマリオはそのようなゲームではなかっただろうか。初代スーパーマリオブラザーズにおいて、プレイヤーに許されていた行動は右へ行く事だけだった。そして、その右へ向かうという行動の果てには最後のゴールが待っていたではないか。自分は何処へ進めばよいのか?目標はどこにあるのか?そのようなことを考える前にとりあえず行動してしまえばそれでいい。その単純明快過ぎる基準こそが2Dマリオの圧倒的なポピュラリティを保証し、3Dマリオがどうしても下げ切ることができなかったハードルでもある。


『スプラトゥーン』は3Dゲームにしてその基準をとうとう下げるところまで下げることに成功した。それはとりあえず地面のどこを撃っても加点されるっていうナワバリバトルというルール設計の巧みさがまずあるが、それ以上に、塗ったらそこを高速移動出来るし、潜れば撃つ為のインクが補充されるという相互に機能を保管し合う「身体」の設計がとにかく素晴らしい。世界のあらゆる局面が「目標」になり、そこに一発目の操作でアクセスが行え、それが更に次の『目標』への到達行動を促し、その到達行動が次の『目標」を撃つための弾薬の補充手段となる。


冒頭にリンクした発表直後に書いた自分の文章で、『スプラトゥーン』が素晴らしいのは1つのアクションに対して複数のファンクション(機能)が込められていることであると指摘した。その指摘は正しい指摘だと今でも思う。そして実際に半年以上プレイし続けていると『スプラトゥーン』とは1つのアクションに込められた複数の機能によって「状況」を塗り変え合うゲームであると思うに至った。このゲームが素晴らしいのはボタンの押せば常に何らかの形で目の前の「状況」が変化し続けるからである。だから目標を探して迷う以前に目の前を撃ってしまうし、自分の色で塗りたくられた空間をスイスイ潜って移動してしまう。


『スプラトゥーン』とはどうしても3Dゲームを初めて一歩目にどうしても陥ってしまう「考えてから行動」というパターンを、「行動してから考える」というパターンにすり替えることに成功したゲームなのである。しかもそこにな言葉による説明や押しつけ等は何もない。ただただキャラクターと状況を提示するだけでそれを達成してしまった。『スプラトゥーン』とはそのようなゲームである。


※11/29追記 最後にいきなり探査水準の低下とか言われてもわかり辛いよなー。ちなみに2Dマリオは探査水準が低いゲームの例として挙げましたが、それとは対象的に探査水準が高いゲームといえば『ゼルダの伝説』です。『ゼルダの伝説』は冒頭、剣すら持たない状態でゲームが始まりますが、それは何故かと言えば、プレイヤーに対して常に空間を探査して、空間から能力を獲得したり、隠された道を探すことを要求し続けるゲームであるってことを要求してるからなんですね。最初からゲームクリアする能力を持ったマリオとは対称的な存在です。この辺、もうちょっと事前に解説して、カメラ問題と絡めていかないと、最後の展開が唐突過ぎましたね。この辺はまた再度別記事で書いていこうと思います。


関連記事 っていうかこの記事で言い足りない部分を補完する記事を今後書いてここに追加していく予定(11/30)hamatsu.hatenablog.com